一般的に、私たちは自分には自由意志があると思っている。だからこそ、それぞれの判断には責任が伴うと考えられているし、どう行動するべきなのかをよく吟味し、苦労しながら結論を導かなければならないと信じている。このように、道徳的責任についての考えは、人は自分の思考と行動をコントロールできるという前提の上に成り立っている。
一方、現代の神経科学者のほとんどは、物事の決定をくだしているのは意志ではなく脳だと考えている。彼らによれば、私たちの選択や願望、信念、思案、行動といったものは、すべてニューロンの通信によって決まっており、そこには判断の自由は存在しない。こうした考えを「神経生物学的決定論」と呼ぶ。この場合、自由にならない行動に道徳的責任を負うことはできないため、道徳的責任は原理的に存在しないことになる。
現代の哲学において、自由意志に関する考えは大きく分けて2つある。
1つは、「自由を有する自己が持つ思考と行動をコントロールする能力」を自由意志と見なす考えである。あらゆる行動は、それについて熟考する機会があるからこそ、自由な行動である。熟考する能力と行為を開始する心の働きが組み合わさって、自由意志を構成しているというわけだ。つまり、自由意志は心の力であり、人の知的能力が損なわれていない限り、確実に存在する。
だが、あらゆる人間の行動の自由意志を無効にできるものがある。それは脳だ。もし神経生物学的決定論が正しければ、私たちの思考と決断を決めるのは脳であり、脳が心をコントロールしているという状態になる。その場合、自由意志があるとは見なされない。そのため、自由意志は神経生物学的決定論と真っ向から対立する。
もう1つの自由意志の考え方は、自由意志と決定論は両立するというものである。これは「両立論」と呼ばれる。これが可能なのは、両立論者は自由意志を「意識の能力ではない」し、「そもそも能力ですらない」と主張しているからだ。両立論における自由意志とは、たんに「ほかに取りうる選択肢がある」という意味にすぎない。もし選択肢自体が存在しているのであれば、選ぶものが仮に脳の働きによって決定されていたとしても、自由はあるというのが彼らの言い分なのである。
このような両立論を受け入れることは、自由意志の問題自体をすべて否定するのと同義だ。しかし、科学の完璧な因果律をすんなり信じられる立場でありながら、人間の自由という発想も含まれている理由から、両立論を受け入れる科学者は非常に多い。
特別な意思決定力のある道徳的主体性が、どうやってコンピューターのように意識のない神経系の機構から生まれるのか、興味深い2つの仮説がある。 そのうち1つは神秘論的なものであり、もう1つは科学的なものだが、どちらも満足とは程遠い回答だ。
神秘論的な答えとは、行為主体性をもつ人間の意識を、根本的に脳とは異なるものととらえる「二元論」のことである。これは17世紀の哲学者、ルネ・デカルトに端を発したもので、心を身体(=脳)から切り離して捉える見方だ。
ただ、このような考え方は、今や科学界では嘲笑の対象となっている。たしかに、心と体が別だと考えれば、自由意志と道徳的主体性は存在するとあっさり断言できる。しかし、二元論を裏付ける科学的証拠は一切ないのが実情である。
一方、科学的な答えのひとつは、「創発」あるいは「創発特性」と呼ばれるものだ。
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