現在、日本のサブカルチャーは世界でも人気を博しており、日本文化への愛を語る外国人も増えてきている。しかし、そのほとんどはいわば庶民クラスの人々だ。一方、海外のエリートたちの日本観はそれとは大きく異なっている。彼らは、「日本人は何を考えているのか分からない」と口々にこぼす。
実際、国際会議などにおける日本人の存在感はきわめて薄い。その大きな理由は、日本には欧米のエリートならば誰でも共有している教養(リベラル・アーツ)がないことにある。商談やプレゼンテーション、ビジネストークにおいて最終的に成否を決めるのは、本題に入る前の雑談であるといっても過言ではない。単にコストパフォーマンスの高いものを仕入れるだけでよいのであれば、見積書をメールで送れば済む時代だ。それにもかかわらず、わざわざ会って話をするということは、同じ価値観を共有できるかを確認したいからに他ならない。
だが、日本の「エリート」はそうした話になると、ぐっと言葉を詰まらせてしまう。話の土台となるべき教養を持っていないから、「日本の企業は現場レベルでは強いが、トップの存在感がゼロ」と言われてしまうのである。
国際的な場でも通用するコミュニケーション力を身につけるために大事なのは、語学力でもなければ、小手先の交渉術でもない。相互理解の基礎となる教養を身につけること、そして自らの見識を高めることが必要不可欠だ。
世界有数の経済大国となった戦後よりも、むしろ戦前の日本のほうが国際的に通用する人材を輩出できていたのは、教育の力によるところが大きい。明治の元勲の多くは、流暢に英語を話せなかったが、彼らには漢詩や漢文といった、中国の古典に裏打ちされた高い見識と志があった。また、ヨーロッパのリゼやパブリックスクールを真似られて作られた旧制高校でも、古典や哲学といったものを重視するリベラル・アーツ教育が行われていた。
こうした、先進国ならばどこの国でもあるはずのリベラル・アーツ主体の高等教育が戦後の日本からなくなったのは、敗戦後の日本を占領したアメリカの意図によるものである。アメリカは、エリート育成機関としての旧制高校を廃止し、「民主化」させることで、日本の弱体化を図った。その結果、今日の日本はどこの国よりも中間層が充実している一方で、その上に位置するはずのリーダー層が皆無になってしまった。
ビジネスや政治の場において、リーダーに求められるのは、本質に根ざした教養や哲学を持つことである。いかに英語が流暢であっても、それだけではうまくコミュニケーションをとることはできないのだ。
不識塾は、そうした「教養のギャップ」を少しでも是正することで、将来の日本を支えるリーダーたちに、教養を学ぶことの大切さを知ってもらいたいという思いで設立された。毎年、新しく企業から送り込まれる塾生たちは、「なぜ会社の業務もあるのに、歴史や哲学などという浮世離れした『お勉強』をしないといけないのか」と考えながらやってくる。しかし、講義の回数を重ねるたびに、彼らの目はどんどんと輝きを増していき、次第に「欧米や中国とどのように向き合っていくべきなのかが見えてきた」と話すまでになる。
次章からは、不識塾の「師範」にあたる人たちが、課題図書のなかでも「これは面白い!」と感動した本を選び、その本にある魅力や読みどころを解説しつつ、持論を展開していく。
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