著者は2000年から2005年までのフランス留学時に、パリ東部のナシオンという駅のそばに住んでいた。この駅の広場はパリで行われる、ほぼ全てのデモの終着点になるので、著者は留学中の5年間にパリで行われた、ほとんどのデモを見たという。
パリのデモを見て驚くのは、多くの人々がお喋りをしながら歩いているだけ、ということである。横断幕を持ってシュプレヒコールを挙げている熱心な人もたまにいるが、ホットドッグやサンドイッチなどを食べている人も多い。そしてデモが終わると広場でなんとなくお喋りをして、地下鉄で帰っていく。
デモの最中、ゴミはポイ捨てなので、行進の後の路上はまるで革命の後といったような趣でゴミが散らかっている。しかし、すぐにパリの清掃人と清掃車がやってきて、あっという間に何事も無かったかのようにきれいにするのである。
デモとはdemonstrationのことであり、何かを表明することである。もちろん、デモのテーマになっている何事か(原発反対、テロ反対など)を表明するのであるが、それだけではない。
デモにおいては、いつもは市民とか国民とか呼ばれている人たちが、単なる群衆として現れる。統制しようとすれば、もはや暴力に訴えかけるしかないような大量の人間である。これは、すなわち「今は体制に従っているけれど、いつどうなるか分からないからな。お前ら調子に乗るなよ。」というメッセージである。
パリのデモで、参加している全ての人々がこんなことを思っているというわけではない。彼らが集まって行進しているという事実そのものが、メッセージを発せずにはいられないのだ。
日本のデモでは、参加者はテーマになっている事柄に深い理解を持たねばならない、と主張する人がいる。しかし、それはデモの本質を見誤っている。デモの本質はむしろ、デモ自体が持つメタ・メッセージ(「いつまでも従っていると思うなよ」)にこそあり、群衆が現れてこれを突きつけることが重要なのだ。高い意識を持ってシュプレヒコールを挙げたり横断幕を持ったりして「働く」必要は無く、団子でも食べながら、ただ歩いていればいいのだ。しかし、ここで「なぜ日本ではデモに人が集まらないのか」という問題に突き当たる。
格差社会、非正規雇用増加、世代間格差など、現代日本の若者を取り巻く状況は非常に厳しい。しかし若者の生活満足度や幸福度は、この40年間でほぼ最高値を示している。驚きの事実である。社会学者の古市憲寿は著書『絶望の国の幸福な若者たち』で、こうした若者の状態をコンサマトリー(自己充足的)という言葉で形容した。
コンサマトリーとは、ある物事それ自体を楽しむことである。これと対になる言葉はインストゥルメンタルであり、物事をツールとして用いて、何らかの目的を目指す状態を指す。
かつて若者は、経済発展という輝かしい未来を目指して、「今」の苦しさに耐えることが求められた。これは「今」とインストゥルメンタルに関わることを意味する。ならば古市が指摘するコンサマトリーな若者たちは、「今」を手段とみなさず、それ自体を楽しんでいるのだと言うことができる。では彼らはどんなとき行動を起こすのだろうか。
歴史的に民衆が行動を起こすのは、民衆の持つ独自のルール(モラル・エコノミー)が犯された場合が多い。世界のどこか遠くで起こった不幸な出来事について語られても、人は驚くか、悲しむだけで終わってしまう。
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