この本のねらいとするところは、研究活動自体の歴史的記録から生じる、科学の全く違った観念を描いてみせることである。
もし、科学というものが、現在の教科書に集められているような事実、理論、方法の群であるなら、科学者とはある特定の一群に、ある要素をつけくわえようと努力している人間を指すことになる。この場合、科学の発展とは、科学知識やテクニックの山をだんだん大きく積み上げていく過程にすぎない。また科学史も、この知識の積み重ねを数えあげ、その集積の障碍となるものをならべたてる年代記にすぎないことになる。
近年、一部の科学史家たちは、こうした「累積による発展」という科学観にもとづいてやっているだけではダメだということにだんだん気がついてきた。そして実際、科学は個々の発見や発明の累積として発展するものではないのである。
同時に、科学史家たちは、たとえばアリストテレスの力学やフロジストン(燃素説)にもとづく化学などの過去の理論について、「科学的」要素と、「誤り」や「迷信」などとして切り捨てられた部分とを、区別することがますますむずかしくなってきたと感じている。つまり、それまでの文脈を無視して、個別の発明や発見をすることのむずかしさをわかっているにもかかわらず、「一つ一つの貢献が積み重なって、科学という一枚の完成図ができあがっていく」というとらえ方に、本質的な懐疑が生じているのである。
本書における「通常科学」とは、特定の科学者集団が一定期間、一定の過去の科学的業績を受けいれ、それを基礎として進行させる研究を意味する。現在、そのような基礎的業績が載っているのが教科書だ。教科書には一連の定説の説明、その応用、さらにその通用例と観測・実験との比較が記載されている。
このような教科書類が普及したのは19世紀はじめのことであった。それまでは、アリストテレスの『自然学』、プトレマイオスの『アルマゲスト』、ニュートンの『プリンキピア』と『光学』、フランクリンの『電気学』、ラヴォアジエの『化学』、ライエルの『地質学』といった有名な古典が、教科書の役割を果たしていたといえる。
数多くの科学の古典が、後に続く研究者の世代にとって、その研究分野の正当な問題と方法を定める役割をしていた。それができたのは、それらが以下の二つの本質的な性格を持っていたからだ。
一つは、彼らの業績が、他の対立競争する科学研究活動を棄てて、それを支持しようとする特に熱心なグループを集めるほど、前例のないユニークさを持っていたことである。もう一つは、その業績を中心として再構成された研究グループに、解決すべきあらゆる種類の問題を提示してくれていることである。
これらの二つの性格を持つ業績を、以下では「パラダイム」と呼ぶことにする。共通したパラダイムにもとづく研究をする人々は、科学にたいして同じ規則、同じ規準をもっている。その規準の採用と、それから生ずるものについての意見の一致は、通常科学の派生と継続のための必要条件となっている。
通常科学の目的には、新しい種類の現象を引き起こすことは含まれていない。むしろ通常科学的研究では、パラダイムによってすでに与えられている現象や理論を磨き上げる方向に向かう。
通常科学的研究、あるいはパラダイムに根ざす研究は、(1)事実の測定、(2)事実と理論の調和、(3)理論の整備という三つの要素によって構成されている。パラダイムにしたがって仕事をすればまっすぐな道を前進することになり、パラダイムを捨てれば科学をやめることを意味する。
通常科学においては、どういう結果が出るかはごく専門的なこと以外は前もって解っていて、期待の幅も限られている。そして、結果がこの期待された範囲に入らないような場合はふつう失敗だとされる。自然をありのまま表現しているのではなく、科学者側に誤りがあるのだと見なされるのである。
通常科学の問題を解きあかすということは、
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