日本に近代の覚醒をもたらした重大な外発的出来事は、アヘン戦争といってよい。この戦争は、日本にどんなインパクトをもたらしたのか。そして日本はどのように対処したのか。その一部を紹介する。
19世紀前半に至るまで鎖国政策をとっていた日本は、フェートン号事件を始めとする一部の外国船の来航を除いて、対外的な危機に見舞われることがなかった。しかし1830年代になると、隣国中国でアヘンが蔓延し始め、1940年にはついにイギリスと中国の間でアヘン戦争が勃発する事態となった。
これは日本にとっても大きな外患であった。著者によると、江戸幕府はアヘン戦争に関する情報の迅速な収集に努めており、幕府が掌握していた情報はかなり正確であったという。
幕府にもたらされる主な海外情報のルートは、朝鮮釜山と交易を認められた対馬藩経由と、長崎に来るオランダ人と清国商人がもたらす風説書の2つだった。風説書はもともとオランダ人が世界情勢を毎年まとめた『和蘭風説書』のみだった。しかし、幕府はアヘン戦争以後、より詳細な世界報告を記した『別段風説書』も要求しており、幕府が世界の動きにいかに強い関心を寄せていたかがわかる。
さらに幕府は、清国商人から得られた『唐国風説書』にも強い関心を示していた。こちらは原文(漢文)のまま読めたという事情も手伝って、現地からもたらされるアヘン戦争の臨場感は、幕府に強い危機感を与えた。このように、幕府は対極的な複数のソースから情報を仕入れていたのだ。
ここで特筆すべき点は、高い感受性を持っていた志士たちが幕府だけでなく民間に存在したことである。その一人が吉田松陰であり、彼に師事した高杉晋作もまた、幕末の志士として有名である。ここでは、歴史上あまり触れられることはないものの、幕末に極めて重要な役割を果たした人物、高島秋帆(たかしましゅうはん)を紹介したい。
長崎で生まれた秋帆は、長崎町年寄だった父に語学や砲術を学びながら成長した。16歳のときには父から町年寄の役を受け継ぎ、以後砲台受け持ちとして砲術研究に励んでいた。秋帆が習得した荻野流の砲術は、当時の日本ではもっとも先進的であったが、西洋砲術にはとても太刀打ちできるものではなかった。幼少期を外国船籍の寄港などの混乱の中で過ごした秋帆は、危機感を抱き、当時西洋で最も進んでいた大砲を輸入し、自身で分解模造(現代でいうリバースエンジニアリング)をし、独自の砲術を完成させた。
また、秋帆の情報感受性の高さを伝える上で外せないのが、彼が蓄積したおびただしい数の洋書である。
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