かつては、本はなめるように読むのがよいと著者は考えていた。しかし、難しい本をじっくり丁寧に読んでいると、知識は得られても、自ら考える力は育たない。
勉強熱心で真面目な学生が、大学の卒業論文でつまらないレポートのようなものを書いていた。参考にした本をそのまま写したようなものだ。それに引き換え、あまり勉強に熱心でなく、好きな本ばかり読んでいる学生が、時折、自分の考えを出した、おもしろい文章を書いた。そういう学生は、人の考えを借りて、自分のものだと勘違いするようなことはなかった。
おもしろい発見や思いがけないアイデアは、乱読から生まれる。人の意見に頼らず、自分の判断で本を選び、自分の金で買うとよい。図書館で借りた本やもらった本はありがたみが少なく、身にならないことが多い。よって本は身銭を切って買うべきである。
また、自分の力で本を選ぶことも重要だ。あふれるほどの本の中から何を求めて読むかを決めるのも、知的活動になる。そして、読めないものは途中で投げ出せばよい。おもしろくないものを無理に読む必要はない。本に義理立てして読了していれば、もの知りにはなるだろうが、知的個性はだんだん小さくなる。
本の選び方についても、やみくもに選ぶのがよい。世の中にはあまりにも多くの本が出ている。手当たり次第、あえて「これは」と思わないようなものを買ってくる。そうして、軽い好奇心につられて読むとおもしろい発見があるだろう。この乱読こそが、本があふれる今の時代にもっともおもしろい読書法なのである。
本を買うときに、新聞や雑誌に載る書評を指針にする人もいるだろう。しかし、これは自分で本を選んでいるのではなく、単なる自己放棄にすぎない。
書評の多くは署名つきで書かれるが、実名で書く書評でその本を正しく批評することは難しい。出版された当初は賞賛された本が、今読んでみるとさほどでもないということや、その逆のこともよく起きる。
ある本を、出版された時点で正しく批評するのは限りなく難しい。したがって、本を選ぶときには、書評を当てにしないほうが賢明だ。
著者は一方的に号令をかけ、命令する存在ではない。著者を必要以上に崇め奉ると、読者にとって得るものが少なくなる。
繰り返し読みたくなるような本を除けば、普段の読書では読み捨てでかまわない。本に執着するのは知的ではない。本を読んだら忘れるにまかせるのが一番よい。本を読んで、大事だと思ったことは自然と心に刻まれるからだ。心に刻まれなかったことをノートに書き留めても、結局はあまり意味がない。
書物は心の糧である。いくら栄養があるからといって、同じものばかり摂取していれば、栄養が偏って専門バカになってしまう。健康な読者をめざすなら、偏った大量の読書は改めなければならない。
知識はすべて借り物である。いくら知識を覚えても、それは自分のものではない。一方、思考は、自力で行わなければならない。本を読んでものを知ると、賢くなったように錯覚するが、それは本当の人間力が備わったのではない。知識が化石のようなものであるのに対して、思考は生きている。
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