東京都福生市にある米軍・横田基地の上空を中心に、世田谷区や中野区、杉並区の上空まで広がる「横田空域」。この巨大な空域を、日本の航空機は米軍の許可がないと飛ぶことはできない。そのため、JALやANAの定期便はこの空域を避け、不自然なルートで航行している。加えて、米軍はこの空域の中でなら、日本政府から許可を得ずしてどんな軍事演習をすることも可能だ。
似たような空域は日本国内のほかにもある。中国・四国地方にある「岩国空域」と、2010年まで沖縄にあった「嘉手納空域」だ。注目すべき点は、これら米軍の管理空域について、国内法の根拠は何もないということである。
1959年、日米安保条約の改定によって、本土上空の航空管制権は日本に返還された。しかし、「米軍基地とその周辺は例外とする」という密約と、「その周辺」を拡大解釈する協議によって、横田空域のような空域が生まれた。日米合同委員会という場では、日本政府が米軍機に優先的に管制権をあたえる、という密約も結ばれている。そのため、実質的に米軍は日本全土の上空どこにでも、優先空域を設定できることになっている。
さらに、航空機が安全に運行できるよう、離着陸する場所や飛行禁止区域を定めた日本の航空法第6章の規定があるが、米軍機と国連軍機にはその規定を適用しないという特例法がある。つまり、米軍機は日本の上空において、合法的に危険な飛行ができるということなのだ。
たとえば、非常に事故率の高いオスプレイという軍用機は、実質的に日本全土の上空で危険な超低空飛行などの訓練を行っている。2020年からはオスプレイは横田基地にも配備される予定なので、いつ事故が起きても不思議ではない。しかし、そうなったとしても米軍は日本では裁かれないことになっている。
なぜなら、前述の日米合同委員会という場で、「日本国の当局は、所在地のいかんを問わず米軍の財産について、捜索、差し押さえ、または検証をおこなう権利を行使しない」という驚愕の密約が結ばれているからだ。現に、2004年に米軍ヘリが沖縄国際大学に墜落した事故でも、2016年に辺野古の対岸でオスプレイが墜落した事故でも、墜落現場の周辺は米軍の規制ロープによって封鎖されていた。そして、事故の証拠物件が日本側に渡ることはなかった。日本は、独立国として明らかに奇妙な国なのである。
日本の超エリート官僚は、月に二回ほど在日米軍のトップたちと秘密の会議をしている。そこで決まったことは国会で報告する義務も、外部に公表する義務もない……というと、まるで陰謀論のようだが、これは現実の話である。この秘密会議が、前項で紹介した「日米合同委員会」である。
日米合同委員会は、アメリカ大使館の公使からも激しく批判されている存在だ。どんな国でも相手国の政府と最初に話し合うのは外交官である。けれど、日本では、占領中にできあがった米軍と日本の官僚の間の直接的関係が、いまだに続いている。
米軍との間で交わされる密約には、ある種の公式がある。それは、「古くて都合の悪い取り決め」=「新しくて見かけのよい取り決め」+「密約」という方程式である。
1960年、対等な日米関係をめざして、岸首相のもと安保条約が改定された。だが、このときにも舞台裏では「基地の問題についての実質的な変更はしない」との密約が結ばれていた。1959年12月3日付でマッカーサー駐日大使と藤山外務大臣が合意した文書が、「基地権密約」文書として発見されている。先ほどの密約の方程式でいえば、「行政協定」=「地位協定」+「密約」ということである。
沖縄県宜野湾(ぎのわん)市の市長であった伊波(いは)氏によると、アメリカの国内法は危険な飛行を禁止しており、それが海外にも適用されるので、米軍機は米軍住宅の上では絶対に低空飛行をしない。加えて、アメリカでは、野生生物や歴史上の遺跡などに悪影響があると判断されれば、訓練計画も中止になるという。それなのに、沖縄の市街地では、米軍機はパイロットの顔が見えるほどの低空飛行をしている。なぜ、日本人の人権だけが守られていないのか。
これは結局、日本人の人権を守る日本国憲法が、米軍には機能していないためだといえる。1959年の、有名な「砂川裁判・最高裁判決」というものがある。当時の東京都北多摩郡砂川町にあった米軍基地の拡張工事をめぐる裁判で、東京地裁は「在日米軍の駐留は、日本は軍事力をもたないとした憲法9条2項に違反している」という判決を出した。これに対して米軍側は、日本政府と最高裁に対して猛烈な政治工作を行った。結果として「安保条約のような重大で高度な政治性を持つ問題については、最高裁は憲法判断をしなくていい」という判決が出された。これは、「安保条約は日本国憲法の上位にある」ことが判例として確定してしまったという意味を持つ。
加えて、「安保条約のような重大で高度な政治性を持つ問題」という言葉づかいのために、私たち日本人は、米軍基地問題のほかのさまざまな政府の行為に法的に抵抗する手段を失ってしまった。実質的に、日本は政府の暴走を司法で止められない、崩壊した法治国家なのである。
どうしてこんなふうに、「戦後日本」という国は歪んでしまったのだろうか。著者によると、その出発点は、1945年の8月15日を「終戦」の日と定めたことにさかのぼる。国際的な常識としては、日本と連合国の戦争が終わったのは、9月2日に日本側がミズーリ号で「降伏文書」にサインし、ポツダム宣言を受け入れたときだ。だが、日本は、「降伏」でなく「終戦」という言葉を使い、自分たちに都合のいい歴史を見てきた。降伏という厳しい現実を受け入れず、国際法の世界を見ずにやってきてしまったのだ。
そもそも日本国憲法の草案も、占領下に占領軍によって書かれたものだ。この事実を意識することなしに憲法は論じられない。また、憲法9条についても、基本的な文書や条文をたどることなしに議論をしては、意味がない。
憲法が国連憲章と強い関連を持つことはよく知られているが、その国連憲章の理念は、1941年8月に作成された米英二カ国協定である、大西洋憲章に起源を見ることができる。大西洋憲章は、米英が理想とする戦後世界のかたちを文書にしたものだ。そこには、日本国憲法9条にある「平和に対する人類究極の夢(=戦争放棄)」と、「邪悪な敗戦国への懲罰条項(=武装解除)」の考え方がはっきりと書かれている。
大西洋憲章の理念は三年後、大戦の連合国側がまとめた、ダンバートン・オークス提案で具体的な条文になった。世界の安全保障は国連軍を中心に行い、米英ソ中以外の国は独自の交戦権を持たないと定められている。まさにこれは日本国憲法9条に重なる条文であり、9条とは国連軍を前提としたものと読み取ることができる。
「ダンバートン・オークス提案」をもとにしてつくられたのが国連憲章であるが、想定されていたような正規の国連軍はついに誕生しなかった。また、国連憲章に「集団的自衛権」の条項などが意図的に盛り込まれたため、戦後世界は結局戦争だらけになってしまった。
ともあれ、憲法草案作成にあたってマッカーサーが残したノートにも、「日本はその防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる」と記されていることから、憲法9条は国連軍を前提としていることは間違いない。憲法9条論には、安全保障と関係のない「絶対平和主義」という思想で語られることもあるが、そちらは法学上の議論とはいえず、「思ったこと」にすぎないのである。
1950年に開戦した朝鮮戦争は、「戦後日本」にとっては決定的な意味を持つ戦争だったと著者は言う。開戦当初、米軍は非常に苦戦した。そうした状況下で、独立に向けてアメリカ側と交渉していた日本は、米軍への戦争協力体制を独立後も継続するという条約を結ばされてしまう。それが、吉田茂首相によって署名された「吉田・アチソン交換公文」である。さらに吉田首相は、日本の独立直後に、米軍の司令官と、有事の際の軍隊の指揮権は米軍にあるということを了解する密約を結んだ。軍隊の指揮権を他国が持っていることは、自国が明らかに他国の「属国」であることをあらわしている。とても正式に条文にできない条項なので、結局密約を結ぶはこびとなったのだ。対米従属の歪みの根幹は、ここにあった。
さらに、米軍が書いた旧安保条約の原案(1950年10月27日案)を読むと、米軍がめざしていた日本軍のかたちが一層はっきりする。そこには、次のようにある。
・日本軍の創設は認めないが、軍隊の兵力や編成などのあらゆる点と、その創設計画がアメリカ政府の決定に従う場合は例外とする
・日本軍が創設された場合は日本国外で戦闘行為を行うことはできないが、アメリカ政府が任命した最高司令官の指揮による場合は例外とする
つまり、戦力不保持の憲法9条2項、戦争放棄の9条1項の破壊への道は、すでにしてレールが敷かれていたのである。けれど、9条1項の破壊である海外派兵は、現在、まだ完全に実現していない。こちらには特に、日本人も必死で抵抗してきた歴史があるのだ。とはいえ、国民が本気で抵抗しなければ、その方向へ確実に進んでしまうというのも現実である。
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