すべての人は平等であり、生まれながらにして貴いとか卑しいとかいう違いはない。
しかし世の中には、お金持ちもいれば貧しい人もいる。あるいは、位の高い人もいれば位の低い人もいる。いったいなぜ平等に生まれたはずの人間に、このような差ができてしまうのだろうか。
江戸時代に寺子屋の教科書として使われた『実語教』には、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」という一節がある。賢い人と愚かな人の差ができてしまうのは、その人がしっかり学んでいるか学んでいないかによって決まるのである。
世の中には、医者や学者、政府の役人、経営者などの頭を使う難しい仕事もあれば、単純な力仕事のように頭よりも体を使う仕事もある。
頭を使う難しい仕事にはどうしても学んでいる人が就くことになるため、身分は高く、収入も多くなる。一方、学んでいない人には体を使うだけの簡単な仕事しか回ってこない。しっかりした仕事につきたいのならば、学問に励む必要がある。
学ぶべき学問とは、難解な古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るといった文学ではなく、日常生活の役に立つ学問、つまり「実学」である。たとえば文字を習い、手紙の書き方や帳簿のつけ方を学び、そろばんを練習してはかりの使い方を覚えることだ。そのほか、地理学や究理学(物理学)、歴史、経済学なども「実学」に数えられよう。
実学は誰もが身につけるべき学問である。こうした学問を学ぶからこそ、身分や職業に関係なく、それぞれ自分の務めを果たして家業を営んでいけるからだ。そして一人一人の独立が、一家の独立、ひいては国家の独立にもつながっていくのである。
学問をするうえでは、分限(自分の身の程)を知ることが重要である。人は生まれたときから自由自在に生きられるが、自由ばかりを主張していては、自分勝手な我がまま者になって身を持ち崩すことになるからだ。
分限というのは、人の心を大切にし、他人に迷惑をかけずに自分自身が自由に振る舞える限界のことをいう。たとえば「自分のお金で酒に溺れて身を持ち崩そうと自由ではないか」と思うかもしれないが、決してそうではない。一人の放蕩ぶりが周囲に悪影響を与えて社会の風俗を乱すのであれば、その罪を許してはいけない。
また、これは個人だけでなく国についてもいえる。日本も西洋諸国も同じ天地の間にあって、互いに通い合う心を持った国民だ。恥じることもなく誇ることもなく、互いに相手国の便宜を図り、幸せを祈るべきである。自然の道理と人として行なうべき正しい道に従って国際交流を深め、自国の身の程というものを知らなければならない。
はじめに書いた「人間は生まれたときから上下の区別なく、みんな等しく自由自在に生きていける」というのは、生活状況が同等といっているわけではなく、権理通義の同等を意味している。
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