著者は幼いころは甘えん坊で、学校の授業に身が入らず落ちこぼれだった。しかし、戦争が始まり、11歳のときに東京から山梨へと疎開して、生活が一変した。その後は父方の実家に身を寄せることになったが、あてがわれたのは牛小屋のような廃屋だった。荒れた田畑での自給自足生活は困難を極めた。両親はただ家族のために身を粉にして働いていた。
あるとき、重いつるはしをふるって必死に開墾している母親の姿を見て、著者の体中に激しい戦慄と恐怖が駆け巡った。「私が代わってあげないと、母が死んでしまう!」それ以来著者は、自堕落な自分がどこかへ消えてしまい、進んで両親の農作業を手伝うようになったという。農繁期には学校を休んで長時間労働に勤しみ、それが忍耐力を高めてくれた。
「逆境は神が与えた恩寵である」。これは、日本の教育界・実業界に多大な影響を与えた教育学者、森信三氏が残した言葉である。先述した厳しい経験がなければ、著者は事業を立ち上げることも、掃除で日本を美しくする活動を始めることもなかったと述懐する。
著者は高校を卒業後、中学校の代用教員、浅草の洋食屋での住み込みの仕事を経て、自動車用品を販売する会社に入社した。戦争で壊れたジープやトラックなどを落札して運び出し、税関を通すといった仕事だ。1日18時間労働が当たり前。手続き資料の作成や詰め込み作業など、心身ともに疲弊する日々。しかし、自分の能力を上回る難しい仕事に取り組む中で、自信が生まれていった。入社して6年後、27歳のときには、著者は専務取締役として給料も破格の待遇を得るようになっていた。
しかし、著者は翌年仕事を辞めた。社長による会社の私物化、お客様をないがしろにした商売のやり方に心を痛めていたからだ。いくら提言しても変わらないのならと、著者は身一つで独立し、自動車用品の卸販売の会社を始めた。待っていたのは想像以上に厳しい日々だった。既存の取引先は、辞めた会社の社長による圧力のせいで、品物を売ってくれない。重い荷物を自転車に積み、新たに一軒一軒売り歩いた。人間扱いされないこともザラにあった。
そんな中で著者は、「今売れている商品だけがヒット商品ではない」と学んだ。当初どのお店も相手にしていなかった、ハンドルのリングカバーを片っ端から売り続けているうちに、それが爆発的ヒットとなったのだ。「小さなことをおろそかにしない」「平凡なことを非凡に努める」。こうした信条が著者の体に染みついていった。
著者の会社に入社してきたのは、紆余曲折を経た社員たちばかり。彼らの心は取引先からの無理難題により、ますます荒んでいく一方だった。良い会社にするにはどうしたらいいのか。
悩んだ末に著者が一人で始めたのが掃除だった。職場環境だけでもきれいにすれば、社員の荒んだ心を癒し、殺伐とした空気を変えられるのではないかと思い至ったのである。
掃除を初めて10年間は、理解者は一人としていなかった。社員に掃除の大切さが伝わらない日々が続き、心が折れそうになったときも一度や二度ではなかった。
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