本書の各トピックは、外国人の主張(ハイライトでは『』内)から始まり、続いて著者がその事象を分析するという構成になっている。
『シリコンバレーにあるIT企業でエンジニアをしています。今回、当社が買収した日本のIT企業のCTOはじめ関係者と打ち合わせをするために東京に来ました。買収先を訪問し会議室に通されると、日本人の担当者らしい男性が出てきて、名刺を差し出しながら言いました。「はじめまして。日本支社の技術部門でCTOを務めております加藤と申します」。流暢ではないものの、聞き取れる英語でした。
夜、アメリカ人の同僚から、日本人の友人が主催するカジュアルなパーティがあると言われ参加しました。「はじめまして、Y社渉外部で課長をしているオオタです」「Z研究所でリサーチアシスタントをしていますタカダです」
皆、コミュニケーションに問題ない英語を話しますが、名前と顔がすっきり頭に入ってきません。変だなと気づいたのは、日本人の自己紹介の順番です。ちょっとおかしくないですか?』
一般的に日本における自己紹介は、自分の所属の大きいところから入り、最終的に個人の名前にたどり着く。即ち、所属している会社→部署→肩書→氏名という順番である。
しかし、アメリカをはじめ海外では先ず、自分の名前、何をしているのか(仕事の内容)、所属、そして最後に出身国を述べる。この流れがグローバルスタンダードなのだ。
自己紹介について、ピーター・ドラッカーは次のように言っている。「アメリカでは、1950年代から1960年代までは勤務先を回答していたが、現在同じ質問をすると『私は税のスペシャリストです』『ソフトウェアエンジニアです』というように自分の専門を回答する。もはや知識労働者は雇用主と自分自身を一体化させた解答はしない」
知識経済化する社会において、生産手段は会社の設備ではなく、社員の知識そのものに移りつつあること、社員が雇用主である会社の存続期間よりも長生きする社会になったということが背景にあるとドラッカーは述べているのだ。自己紹介の順番の違いは、グローバル化のみならずこうした知識経済化も背景にあるといえるだろう。
本章では、ほかにも「CCメールが多すぎる!」など注目すべき日本の会社文化について外国人からどう見えるのかが言及されている。
サンパウロの大学で教育学を専攻したのち、自分のルーツを知るために日本に来ました。2年前に、今の教育研修関連の会社に正社員として採用になりました。私はルーツのある日本で専門の教育関連の仕事ができるのにとても満足しています。
あるお客様に来年度の研修プログラムで最先端の情報も盛り込んだ新しいプログラムを提案したいと思っていました。上司からも「来週それで提案しましょう。ただし、保守的な考え方をするので、きちんとキョウチョウすることを念頭に置いてください」と言われました。
提案の際、私は言われたとおり、新しいものにするべき理由をできるだけ強調するように心がけ、力を込めて語りました。
帰り道、心の中でガッツポーズをした私ですが、上司にひどく怒られました。どうしてでしょう。』
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