吉本興業(以下、吉本)の歴史は明治45(1912)年、吉本吉兵衛と吉本せいの若夫婦が、天満宮裏に並ぶ寄席のひとつを経営するところから始まった。
寄席を経営する前の吉兵衛は、旦那芸として覚えた剣舞に病みつきになっていた。「女賊島津お政本人出演のざんげ芝居」なる一座の太夫元になって、みずから地方巡業したほどである。その結果、破産宣告を受けてしまった。
失意の吉兵衛に寄席の経営をすすめたのが、妻のせいだった。
二人はさまざまな安くておもしろい演芸を提供し、客の心を掴んだ。経営は楽ではなかったが、せいの才覚や努力もあり、どうにか軌道に乗せること1年。吉兵衛は名を泰三と称し、南区笠屋町に吉本興行部の事務所を開いた。寄席のチェーン化に乗り出したのだ。
やがて由緒ある寄席「金沢亭」を買収し、南地花月と改名。その名には「咲き輝くか、散り翳るか、すべてを賭けよう」という夫婦の決意が込められていた。今日の吉本演芸館に受け継がれている「花月」の始まりである。
人気落語家であった初代桂春団治の引き抜き、のちに花月亭九里丸となる三枡小鍋の発掘など、2人は人材の開拓に力を入れた。そして10年で大阪の寄席のほとんどを支配下に収め、落語界を統一。強大な演芸王国を築きあげた。
また傘下の芸人をすべて専属とし、月給制にすることで、芸人を組織のなかに抱えこむことにも成功した。この専属・月給制度は、現在の吉本にも受け継がれている。
しかし活動写真の登場により、落語の人気に陰りが見えはじめた。安来節に目をつけヒットさせたものの、寄席演芸の新しい流れは生まれず。時代が求める新しい「何か」が必要だった。
大正12(1923)年に起きた関東大震災で、東京の寄席の大半が壊滅した。吉本は見舞いを兼ねて高座を失っている芸人たちに会い、来阪の約束を取りつけた。これを機に東京の一流どころが次々と来阪し、吉本の高座をつとめるようになった。東京との強力なパイプができはじめたのはこの頃だ。
しかしそれだけでは大阪の寄席に大きな変化は起きなかった。そんな折、泰三が37歳の若さで急死。せいが吉本の後を継いだものの、実質的な指揮は、せいの実弟である林正之助に委ねられた。
当時25歳の正之助は、万歳(漫才)に目をつけていた。万歳は庶民のなかから生まれたばかりの演芸で、権威や形式がなく、おもしろければ何を演じてもよい自由さがあった。
正之助は興行に何組かの万歳を入れてみた。結果は好評。これに自信を得た正之助は、次々と万歳師を専属に入れて寄席に送りこんだ。のちのスター、花菱アチャコも吉本の専属になった。
万歳の近代化をめざすうえで、正之助は横山エンタツに目をつけた。横山のスカウトに成功すると、アチャコと組ませてエンタツ・アチャコを結成。正之助の案で、二人揃って洋服姿で舞台に立たせた。意識的に洋服を着た万歳は、これがはじめてである。
エンタツ・アチャコは互いを「キミ」「ボク」と呼び、日常的な話題をそのまま万歳のネタにした。こうして喋りまくる「しゃべくり万歳」スタイルが誕生した。唄もなければ問答も踊りもなし。はじめは戸惑った観客も、たちまちそのおもしろさの虜になった。
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