「道」とは簡単に語れるものではない。それは人生の指針であり、万物の真理のようなものである。
欲をもたないとき、道の奥深さが見えてくる。反対に欲があると、さまざまな活動の「結果」ばかりに目が行ってしまう。欲をもたずに物事を見るということが、「道」を見きわめることにつながる。
道というものは奥深いが、おぼろげではっきりしない。しかしその中にはたしかに実体がある。それは「純粋な気」である。道というものは、昔からこのように存在しつづけているものなのだ。
道を守っている人のまわりだと、人々は安らかに過ごすことができる。道には音楽や食べ物のように、人を引きつけるような目立つものはない。道は目に見えないし、味もないからだ。しかしその効果は尽きることなく、永遠に持続する。
道は万物の元だ。だからすべての物は道を尊ぶ。道を尊ぶべきなのは、道がもとから尊いものだからである。道はすべてを生み出し、育て、守っている。しかしその見返りを求めたり、支配しようとしたりはしない。これを「奥深い徳」という。
人の上に立つ人は、道を大切にしなければならない。風や雨が一日中続くわけではないように、永遠に変わらない人などいない。偉大な自然ですら常に変化しつづけている。人であればなおさらだ。だから人を統べる者は、道と一体にならなければならない。道は不変のものだ。道と一体になっていれば、まちがいなく人民を統べることができるだろう。
人民を治めようとして意図的に何かしても、たいていはいい結果にならないものだ。人民を治めるということは「神聖な器」になるということである。それは何とかしようと思ってどうにかなるものではない。世の中にはさまざまな性質の人がいる。それに手を加えようとしても、自分の意思ではどうにもならないのだ。ムリに治めようと思うと裏目に出る。欲をもたずに超然とした存在でいるべきである。
何事も土台がしっかりしていれば、簡単に壊れることはない。家族の中心になる人や、国を治める人など、人の上に立つ立場の人が道を修めれば、物事は安定する。人の上に立つ人であればあるほど、物事を見きわめ、正しくあることが重要になってくる。
支配者はいくつかの種類に分かれる。もっともいい支配者とは、人民がその人のことを知っているだけの人を指す。次にいい支配者は、人民がほめたたえる人である。人民に恐れられる支配者はその次であり、人民にバカにされているのがもっともひどい支配者である。
支配者に必要なのは誠実さだ。誠実さがなければ信用されない。自分でなにか成し遂げたとしても、「そうなって当然である」という顔をしている人がもっともすぐれている。偉大なことをしても、それを誇示したりしないので、人民はその偉大さに気づかない。だから偉大であると気づかれない支配者が、もっともすぐれているのである。
逆に自らの手柄を自慢する者や、才能を誇る者は真にすぐれた者ではない。これらは「余った食べもの、よけいな振るまい」、つまり無駄なものである。
道を修めれば修めるほど、欲望はだんだんなくなっていく。欲望がなくなっていくと、ついには何もしないところまで行きつく。しかし何もしていないように見えて、実のところすべてのことをしているのだ。人民を治めるためには、何もしていないように見える状態が一番いいのである。
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