アランの幸福論には「情念」という言葉が何度も登場する。アランの文章を読み解くには情念の理解が欠かせない。情念は感情に似ている。しかし、感情よりもっと心の深い部分で沸き起こる思いのようなものである。感情をその度合いで測るのであれば、ちょうど激情と感情の間に情念が位置するイメージだ。
アランに大きな影響を与えたフランスの大哲学者、デカルトの説明では、基本的な情念には「愛」「憎しみ」「欲望」「喜び」「悲しみ」「驚き」の6つがあり、これらが絡み合うと情念はより複雑になるとしている。
アランは情念の善し悪しについては語っていない。しかし、情念によって負の感情を抱き、自ら不幸を招き寄せてしまうことに対しては懸念していた。人間は情念からは逃れられない。ただしコントロールはできる。それを叶えるのは「高邁の心」だ。傲り高ぶることなく卑下することなく、自分を尊重する気高い心である。
誤って喉にものがつかえてしまったとする。むせかえり、筋肉は引きつり、パニックに陥る。このようなときには全身の力を抜くといい。息を無理に吸い込もうとするのではなく、喉につかえているものを外に押し出してやるのだ。
咳止めにもこれと同じような方法が使える。人は大抵風邪で咳が出ると、身体が疲れるまで咳き込む。しかし、何も考えずに全身の力を抜いて静かにしていれば、「苛立ち」も治まってくるだろう。情念の中でも「苛立ち」という言葉は最も激しいものに使われることがある。激しく咳き込む人と、怒り狂う人は似ている。恐れについても同じことが言えるだろう。
情念に囚われると、人は怒りや恐怖から我を忘れてしまう。そんなときこそ運動が役に立つ。運動によって、理性で身体の動きをコントロールしやすくなる。これが身体を動かすことの意義である。
不機嫌には罠がある。無知を隠すために本は読まないと言い張る。強がって意地を張る。いつもつまらなそうな顔をしている。いざ嬉しいことが起きても素直に喜べない。不機嫌が不機嫌を呼ぶ。そして「これが俺の運命なのだ」と捨て台詞を吐く。これが不機嫌の罠だ。
本来なら、寒い北風が吹くときには、寒いのは良いことだと受け入れるようにしたい。喜びの達人スピノザは、「からだが温まったから満足しているのではなく、私が満足しているから温かいのだ」と言った。
喜びが欲しいなら、それを得る前から準備しておくのである。喜びを受け取る前に感謝し、希望を抱くからこそ喜びが生じる。したがって、起きる全ての物事を、喜びが訪れる兆しにしなければならない。
何を始めるにしても、必要なのはまず出発することだ。どこへ行くかはそれから考えればいい。あれこれ考えてばかりいる人は、いつまでたっても決断できない。
生きる上で大切なのは、自分の決断に文句を言わず、決めたことを成し遂げることである。もしその選択が誰かに強制されたものであれば、宿命を感じずにはいられない。しかし、だからといってそれに縛られる必要はない。運命は、良くしようとすれば良い方向へと導いていけるからである。
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