恒星が光る理由について、あるいはブラックホールの内部について、私たちはある程度深く理解している。だがどうやって理解しているのだろうか。実際にそれをみた人間などいないはずなのに。
私たちの最善の理論は、並外れたリーチと力をもっている。これとは対照的に、私たちがそうした理論を生み出すために用いる手段は、根拠が不確かかつ局所的だ。私たちは星が核エネルギーで光る事実を直接目にしたわけではない。それをただ理論によって知っているのである。
科学理論とは説明のことだ。ではそうした説明はどこからもたらされるのか。かつては自らの感覚という証拠から導かれるとされてきた。いわゆる「経験論」である。
しかし科学理論はなにかからおのずと導き出される類のものではない。科学理論とは推測、つまり大胆な推量だ。そしてそれは人間の心によって生み出されるのである。
説明的理論の特徴は、推量や批判、テストを通して改良できることだ。これは科学にとってきわめて重要である。
真実の探求のためには、権威を否定する必要がある。ある知識を「たしからしい」と正当化するための信頼できる手段などないと認識することで、実際にそこになにがあり、どうふるまうのか、そしてその理由はなにか、より良く理解できるようになる。
「自分たちの最善かつもっとも基本的な説明にさえ、誤りがある」と考えることは、より良い方向へと変えようと努力する契機となる。限りない知識の成長の始まり、つまり無限の始まりにおいて、こうした姿勢は必要不可欠だ。
先史時代のごくはじめからつい最近にいたるまで、人類は現実世界の理解をゆっくりとしか深められなかった。そこに科学が登場し、著しい速度で知識を創造することに成功した。これは「科学革命」と呼ばれている。
「科学革命」はもともと、より幅広い知的革命である「啓蒙運動」の一部だった。「啓蒙運動」という用語はいくつもの概念を含んでいるが、共通しているのは、それが知識に関する権威への抵抗だったということである。しかも古い権威を否定して新しい権威を打ち立てるのではなく、権威に頼らずに知識を得ようとしたことが重要であった。啓蒙運動とは知識を探し求める方法についての革命だったといえる。
科学革命によって「科学理論は『テスト可能』でなければならない」とする、方法論上のルールが生まれた。いまそのルールは、科学的手法を定義づけるものとして広く受け入れられている。
だが理論=テスト可能というだけでは、進歩を起こすまでには至らない。大切なのは起こっていることを正確に説明することである。そうでなければ「科学は結果の予測ができるだけで、結果を引き起こす実在そのものを記述するものではない」という過去の誤った考え方に陥ってしまう。
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