2009年、北朝鮮では、インフレ対策として、紙幣の金額からゼロを2個取り去った新通貨が発行された。たとえばドイツのように、旧貨幣(ドイツマルク)が新貨幣(ユーロ)に永久に交換可能だと発表されていたならば、消費者にとっては本質的な変化はないはずだった。ただ単位を変更しただけだから、裕福な人は相変わらず裕福で、貧しい人は相変わらず貧しいままだ。
ただし北朝鮮の施策は、ドイツの施策とは異なっていた。政府は、一定額の旧通貨しか新通貨と交換できないと発表したのだ。加えて、旧通貨を新通貨と交換できたのは、24時間のみだった。結果として、旧通貨を大量に保有していた人は、蓄えていた財産の大部分を失ってしまった。北朝鮮政府は、価値あるお金を価値のないものにしてしまったのだ。
同時期のアメリカを見てみよう。アメリカでは、2008年の金融危機を受けて、FRB(連邦準備制度理事会)がお金を新たに創造していた。FRBは、2008年1月から2014年1月までの間に、およそ3兆ドルの新しいお金を米国経済に供給していた。
つまり、北朝鮮ではお金の価値がなくされた一方、アメリカでは、お金がゼロから生み出されたのだ。
アメリカで収監されている囚人たちの「お金」を見てみよう。彼らは、現金の所有を認められていない。その代わり、売店に掛け勘定口座を持っている。刑務所における通貨は、現金ではなく、売店の商品だ。
刑務所内取引において使われる代表的な商品が、パック入りのサバ、「マック」である。「マック」は持ち運べるし、保存がきく。さらに、売店でおよそ1ドルで売られていて、マックを単位にすればドル計算がしやすい。
前述したドルやウォンとは異なり、サバには内在的価値がある。食べられるのだ。もし、北朝鮮やアメリカにおいて通貨がサバだったなら、北朝鮮でもアメリカでも、前項で述べたような対応はなされなかったはずだ。北朝鮮のように、「サバは無価値になった」とは言えない。なぜならサバは、食べられるという意味で、サバ自体に価値があるからだ。またアメリカのように、サバを一瞬で数百万個生み出すことはできない。
同様に、米も通貨として使うことができる。取引できるし、食べられるし、植えられるし、貯蔵しておいて後でこのどれかを実行することもできる。また、特に米が好きでなくても、支払いとして米1袋を受け取る場合もあるだろう。なぜなら、米を好む人は他にたくさんいるからだ。自分にとって米に価値があるのは、他の人にとって米に価値があるからともいえる。これがさまざまな文化で歴史を通じて交換手段として使われてきたあらゆる財――塩やタバコ、動物の生皮など――の重要な特徴だ。
ただし、商取引の際、重い米袋を持ち歩きたくはないはずだ。そこで、証書を作成して署名し、証書と米袋の交換を約束するという仕組みができる。あなたは、証書をだれかに渡し、別の商品を受け取ったり、サービスを受けたりする。証書を受け取っただれかは、米蔵に行き、証書を渡して米袋を受け取る。もしくは、別のだれかに証書を渡し、商品を受け取ったり、サービスを受けたりする。これが流通紙幣だ。
証書の持ち主が米を必要としたら、証書と米を交換するだろう。そうでなければ、米袋は、長期間にわたって米蔵にしまわれていることになる。証書を持っている人たちは、いつでも証書と米が引き換えられると信じているかぎり、あわてて引き換えることはない。ただしその確信がゆらげば、人々は米蔵に押し寄せ、証書と米との引き換えを求めるだろう。
現代のお金は、信頼に左右される。
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