人間の視覚や聴覚といった感覚器官はきわめてデリケートにできているようだ。ふだんよりも刺激の少ない状態、たとえば大海原を航海しているときや、見渡すかぎり青い空のなかを飛行するパイロットは、幻覚を見やすいことで知られている。
それではなんらかの疾患で視覚や聴覚を失ってしまった場合にも、やはり幻覚を「見たり」「聞いたり」することがあるのだろうか? 答えはもちろんイエスだ。視覚障害者が幻覚を見る現象は、これを体験したスイスの博物学者にちなんでシャルル・ボネ症候群と呼ばれる。
患者が「見る」幻覚の多くは、具体的な形になっていない色や模様だ。だが一定の割合で人や動物、あるいは文字や楽譜のように、複雑な幻覚を見る患者もいるし、「何百という群集が押し寄せてくる」といった幻覚に恐怖を感じる患者もいる。
ここで強調するべきは、こうした幻覚を見る患者たちの多くが、正常な精神状態であることだ。彼らにとって、幻覚は現実と区別して認識されているのである。
正常な精神状態でも幻覚が起こることは、かなり前から知られていた。一方で幻聴は、長いあいだ医学の世界で深刻な精神障害、とりわけ統合失調症を発症した証拠と見なされてきた。なぜなら統合失調症患者のほぼ全員が「声」を聞くからだ。
しかし逆は必ずしも当てはまらないどころか、ごくふつうに生活をしていても幻聴を体験している者がたくさんいることが、近年になってわかってきた。一般の人びとが聞く幻聴は、自分の名前を呼ぶ声や耳鳴りに近い騒音、何かの音楽など、あまり大きな意味をもつものではない。しかし雪山で遭難したときなど、生死を分けるような極限状況で聞く「声」のなかには、重要な指図をしたり、あたかも守護天使からの言葉のように思えたりすることもある。
ある高齢の患者は、聴力を失いつつあるときに音楽の幻聴を聞いたという。その音楽とは、特定の曲だったりラジオのようであったり、断片的な音節であったりとさまざまだったが、かなりしつこく聞こえる場合もあった。どうも音楽幻聴には脳の広い領域が関わっているようで、どこかが刺激されると、まるでオーディオプレイヤーのスイッチを押したときのように「聞こえて」しまうらしい。
幻覚や幻聴とはなにか。脳のどのような作用でそれらが見えたり聞こえたりするのか。
1950年代から60年代にかけて、幻覚を人工的につくりだすため、さまざまな実験が行なわれた。健康な男女を防音室に入れてゴーグルをかけさせ、手袋で触角を奪うといった感覚遮断をほどこしたところ、図形や光の模様のように単純なものから、「ジャングルのなかを歩き回る先史時代の動物」といった複雑なものまで、被験者からはさまざまな幻覚の報告がなされたという。
さらに体をお湯の入った暗いタンクに浮かべて、触感や姿勢の変化を感じさせなくする「感覚遮断タンク」も考案された。このタンクに入った被験者の多くは2日目くらいから幻覚を見はじめ、「まばゆいクジャクの羽と建物」「美しい夕日の風景」など、サイケデリックな幻覚を報告する者もいた。
近年はこのような感覚遮断が脳におよぼす影響を調べられるようになっている。ある研究によれば、視覚を封じられて異常に敏感になった視神経の興奮が、ボトムアップで脳に幻覚を見せているようだ。
脳神経系になんらかの異常が生じたことによる病は、その症状のひとつとして幻覚を生じることが多い。
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