ビートルズは音楽シーンに登場したときから、すでに伝説的な存在として注目を集めていた。ビートルズが後世に与えた影響ははかりしれない。彼らの音楽は、国境や言語、イデオロギーといった障壁を越えて、世界中の若者にとって強いメッセージとなった。
しかし、いくら天賦の才に恵まれたアーティストであっても、それが人に認められなければ歴史に名を残せない。ビートルズを見出したのは、ブライアン・エプスタインだ。ブライアンは、同性愛者としての孤独を抱えながら育った。その一方で、両親から任せられたレコード店を短期間で大きく成長させるなど、ビジネスパーソンとして非常に優秀な功績を残している。
そんなブライアンは、レコード店に訪れる客からビートルズの存在を知る。ビートルズにすっかり魅了された彼は、1962年、ビートルズのマネージャーに就任した。
その後、ブライアンの導きによって、ビートルズはEMI傘下の小さなレーベル、パーロフォンの制作責任者、ジョージ・マーティンと出会うことになる。マーティンはあるきっかけから、ロサンゼルスのキャピタル・タワーにある近代的なスタジオを見た。この経験から、イギリスにも多重録音のできる機材が必要だと改めて確信した。そして、機材や録音技術をイギリスに持ち込もうと奔走した。こうしてアメリカで手に入れた知的財産を、ビートルズのレコーディングに活かしたことにより、マーティンは「ビートルズを創った男」と呼ばれるようになる。
世界的な人気バンドとなったビートルズは、もちろん日本でも、その名を轟かせるようになっていた。熱心なファンは、長く来日公演を待ち望んでいた。ビートルズの来日が正式に報じられたのは、1966年4月6日のことだ。ロンドン発のAP通信のニュースが第一報となった。
ビートルズの来日が確定したのは、1966年4月27日である。読売新聞が「世界最高の人気グループ ザ・ビートルズを招く」と報じた。だが、担当ディレクターのいる東芝音楽工業だけは、なぜか沈黙を守り続けた。
というのも、この年は、エレキブームが大人たちからの非難に晒され、青少年非行化の温床として槍玉に挙げられた年だったからだ。ビートルズは不良を作り出す元凶とも見なされ、世間の風当たりは強くなる一方だった。また、折しも右翼による抗議が始まった。こうした背景もあり、来日公演で不測の事態が起きないよう、行政のレベルで厳重な警備体制が取られることとなった。
ビートルズの音楽著作権を日本で管理するパブリッシャーは、東芝音楽芸能出版株式会社であった。1966年に、その社長と、東芝音楽工業株式会社の専務取締役を兼任していたのが、石坂範一郎という人物である。範一郎は、語学と音楽、芸能を愛する明治生まれの知識人であった。実業家と言うよりは学者に近い雰囲気の紳士だったという。
範一郎は16年余りの間、東芝音楽工業で活躍した。その間に成した偉業の1つは、坂本九の「上を向いて歩こう」を、「SUKIYAKI」という名前で世界中にヒットさせたことである。1962年にこの曲を世界のマーケットに投入すると、1年後、アメリカで奇跡的なヒットとなった。その後、世界に人気が広がり、「上を向いて歩こう」が、世界で通用する楽曲であることが証明されたのである。
ビートルズがアメリカで大成功を収めるのは、そのわずか半年後のことだ。範一郎が日本のマーケットにビートルズを招くきっかけを作れたのも、「上を向いて歩こう」のヒットがあったからである。
カリスマ経営者、石坂泰三について紹介しよう。泰三は1938年に、52歳で第一生命の社長に就任している。泰三が35歳で取締役に昇進し、社長になるまでに残した業績によって、保険業界の間で中堅程度だった第一生命は、業界2位の地位を確保するまでになった。
太平洋戦争が終わった翌年、泰三は60歳で第一生命を退職し、東芝の再建を担うことになる。当時の東芝は、戦時中の混乱と労働組合との紛争によって、倒産は時間の問題とも言われていた。しかし、時の運が泰三に味方した。朝鮮戦争の特需で、製造業に追い風が吹き始めた。泰三が社長に就任した翌年には、東芝は倒産の危機を回避して、黒字を計上するまでになる。
範一郎は、泰三の親戚にあたる。戦前から日本ビクターに出向し、レコード部門の要職にあった。そんな範一郎は、泰三の命を受けて、東芝のレコード事業を一手に担うこととなった。
東芝レコードは、ロカビリー・ブームをきっかけに日本の音楽産業に参入した。ロカビリー・ブームとは、日本におけるロックンロールとティーンエイジャー向けのポップスによる、新たな音楽のムーブメントだった。同社は、フリーランスの新しい作家を中心にした邦楽制作と、ポップス系の新興勢力と組んで、ポップス路線に活路を見出していく。
その後に続いたアメリカンポップスのカヴァー・ブーム、エレキブーム、フォークブーム、ニューミュージック。こうした新しいムーブメントは、ロカビリー・ブームを原点としている。東芝レコードは新しいムーブメントにおける先導役を果たしながら、企業として著しい成長を遂げていった。
泰三が社長の座を降りた後、東芝は一時大きな経営難に見舞われた。東芝音楽工業も存続の危機に直面することとなる。そこに光が見え始めた契機は、1963年の「SUKIYAKI」の世界的なヒット、そしてビートルズの日本での成功だった。これを支えたのは、範一郎が行った、良い作品を生み出す体制作りや、新たな音楽ビジネスの準備だった。彼は当時すでに、レコード産業の未来が、レコードの製造や販売の拡大だけでなく、あらゆる権利ビジネスの発展にかかっていると見抜いていた。
東芝音楽工業の再建計画は、ビートルズの売上が加算されたことによって、いよいよ軌道に乗り始めた。邦楽で売上に貢献したのは坂本九である。「スキヤキ」の再発売に続き、「見上げてごらん夜の星を」、「明日があるさ」など、ヒット曲が相次いだ。
アメリカでのビートルズ旋風が巻き起こったことから、ビートルズは、国内でもますます注目を集めるようになった。一時は、工場でのレコードの生産が追いつかない状態にまでなっていた。
後に「ビートルズを呼んだ男」と言われる永島達司。彼は、三菱銀行に勤務する父の海外赴任の影響で、海外生活が長かった。これにより、自然と流暢な英語を身につけることになった。永島と範一郎が接点を持つようになったのは、永島が来日公演を手がけたナット・キング・コールの日本における販売元が、東芝音楽工業だったからである。永島は範一郎と懇意になってまもなく、海外との音楽ビジネスについて、さまざまな手ほどきを受けることになった。
東芝音楽工業の業績は、1965年以降も好調だった。ビートルズの招聘計画に時間や予算がかかっても、余裕が持てるほどになっていた。とはいえ、来日公演を実現させるべく奔走したのは、最も大切な顧客である少年少女や若者たちの夢と願いを叶えるためであった。
範一郎はしばらくロンドンに滞在した。そこで、ビートルズの音楽は単に若者の中だけのブームで終わらず、今後も歌い継がれ、教科書に載る日もくるだろうと確信した。日本でも、ビートルズのような音楽をめざすアーティストを育てていくことが、レコード会社のなすべき事業だ――。そう考えたであろう範一郎は、ビートルズ来日公演の会場として、日本武道館を使用することを泰三に相談しようと決心した。
1965年、ベンチャーズの「ダイアモンド・ヘッド」のヒットを受け、空前のエレキブームが日本に巻き起こることになる。地元のバンドによるエレキパーティーが、各地で開催された。しかし、その中からシンナー遊びや睡眠薬遊びをする者が出たことで、エレキブームは「非行の温床」として、強い偏見に晒されるようになった。
そのような状況下にありながら、1965年の時点で、東芝音楽工業からの招聘活動がマネージャーのブライアンを通してジョン・レノンにまで伝わっていたことは明らかだった。ジョン自身の「日本には一度行ってみたい」という発言は、当時リップ・サービスと捉えられていた。しかしこれは、ジョンとしては本気の発言だったと考えられる。
日本武道館は、敷地の一方が靖国神社に、反対側は皇居に繋がっている。毎年8月15日には、政府主催で戦没者追悼式が行われる神聖な場所だ。この場所でビートルズの公演を行うとなれば、大きな反対が出ることは予想できた。そこで東芝音楽工業は、会場の使用に大きな影響力を持つ人物を味方につける必要があった。
東京オリンピック決定後、武道館設立に動いたのは自民党衆議院議員であった正力松太郎である。正力は武道館使用のキーパーソンだった。そして彼を味方につけた人物こそ、「財界総理」と呼ばれ、新聞社にも多大な影響力を持っていた石坂泰三である。
「武道の殿堂をビートルズなどに使用させるな」。こうした強い批判に終止符を打ったのは、読売新聞である。そこで発表された武道館からの声明には、ビートルズがイギリス女王から勲章を受けたこと、英国からの強い要請があったことが述べられていた。これによって一部の過激派を除く反対派は、反論を撤回するに至った。こうして、ビートルズの武道館公演は、厳重な警備を敷かれながらも、無事に成功を収めた。
ビートルズ来日中、永島はメンバーに密着していた。その間、範一郎も共に行動していたことが推測できる。実際に、1970年代に入ってからは、ジョン・レノンとオノ・ヨーコ夫妻は、来日のたびに範一郎を訪ねていた。
また、ポール・マッカートニーと永島も親交を深めていた。永島が亡くなった際に、ポールは遺族へこんな言葉を残している。「彼(永島)は最高の紳士であり、自己主張をせず、自然を愛し、自然と折り合いながら暮らしていた」。
この言葉は、範一郎にも当てはまっていた。謙虚であり、立派な英語を話す西洋的な紳士であること。しかし、必要最低限のことしか話さない、サムライのような本質を持っていること。
ビートルズの華々しい舞台の裏側で、それを周到に準備して武道館公演の実現へこぎ着けた本当の主役たち。彼らはその手柄をひけらかすことなく、そして、日本の音楽史にほとんどその名を残すこともせず、そっと音楽シーンから退場していったのだ。
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