「メディアはメッセージである」。この言葉はマーシャル・マクルーハンの最も有名な言葉といってよい。マーシャル・マクルーハンはカナダの英文学者だった。1950年代から60年代にかけて、テレビを中心とした電子メディアの本質を、短いフレーズに表現したことで、彼は一躍有名になった。
だがマクルーハンの言葉は、メディアの定義や定理を表そうと企図したものではなかった。それよりもむしろ、メディアという宇宙を探査するための道具として、役立ててもらおうと考えていた。
例えば、マクルーハンの提示した「ホットとクール」「聴覚的空間と視覚的空間」などの対立概念を、いろいろなメディアに当てはめてみよう。すると、各メディアの持つ違いが鮮明になる。そしてそこから、メディアの特性の本質が浮かび上がってくる。
われわれはたいてい物事を理解するとき、常識に当てはめて考えることが多い。しかし、未知のメディアを既知の言葉に置き換えたところで、われわれの想像力の壁に阻まれ、本質にはとうてい辿り着けない。真に有効なのは、自ら変化を起こして「場」を変えることなのだ。
人は客観的に自己を見ることが得意ではない。要するに、魚は釣り上げられて初めて、自分がそれまで「水」というものの中にいたことを認識する。これは20世紀初頭のキュビスム運動にも当てはまる。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、人間の空間認識を大きく変えるメディアが登場した。例えばX線の発明。これにより、人間の体の透視画像を、外側から撮影できるようになった。また、動力飛行機の発明は、平面の世界だった地図を、三次元の世界へと一気に拡張した。
こうした変化をいち早く感じ取ったのが芸術家たちである。変化の兆候を形にしたのがキュビスム運動だった。時代の変化は、その渦中にいる人たちには認識されにくい。外から観察し、感覚的あるいは直感的に感じ取れる芸術家のほうが、先に感知できた。
テレビという電子メディアも同様だ。テレビ放送が本格的に始まったのは戦後のことである。そのため戦後生まれのベビーブーマーや団塊世代にとっては、新鮮なものに映ったに違いない。しかしそれ以降の世代にとっては、テレビは生まれたときから慣れ親しんだ「水」のような存在になっている。
今やテレビはパソコンの付加機能となってインターネットと融合し、デジタル放送になっている。デジタル・メディアという大きな枠組みの一つとなった今こそ、テレビなどの電子メディアを客観視し、その本質に迫ることができる。
2000年11月14日、英国のエリザベス女王によって、バッキンガム宮殿内における王室スタッフの携帯電話使用が禁止された。同様のことは、20世紀初頭のオーストリア・ハンガリー帝国でも起こっていた。当時のフランツ・ヨーゼフ皇帝が、宮廷での電話の使用を禁止したのだ。
なぜ禁止とされたのか。宮廷とは、しかるべき社会的地位にある人のみがアクセスできる、神聖な場所である。にもかかわらず、電話は召使いの取次ぎも招待状もなく、庶民と王室をつなげてしまう。すると、君主との距離をもって特権的地位が決まるという、貴族社会のルールが無視される。挙句に、社会的な空間構造が破壊されてしまうのだ。よって電話は、権威の基底にある情報の非対称性を消失させ、均等化させる存在と呼べた。
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