日本時間の2017年11月29日、大谷翔平選手(以下、大谷)はロサンゼルスに向けて飛び立った。アメリカのメジャー球団との入団交渉に臨むためだ。
大谷の入団交渉をバックアップしたのは、世界最大のスポーツ・エージェント企業であるクリエイティブ・アーティスツ・エージェンシーだ。全米屈指の敏腕エージェント、ネズ・バレロが代理人を務めた。
大谷はホテルに荷物を置くなり、球団が送ってきた事前資料に目を通しはじめた。事前資料によるプレゼンテーションは、注目度が高い大谷ならではの特別措置だ。その数は25球団とも27球団とも言われ、30球団あるアメリカのメジャー球団のほとんどが大谷獲得に向けて動いていた。大谷はすべてを丁寧に読み込んだうえで直接面談を行なう球団を7つに絞り込み、交渉に臨んだ。一般的にメジャーの世界では、大型契約を勝ち取ることがプレイヤーにとっても代理人にとってもステイタスとなる。だが23歳の大谷にとって、契約金額はさほど重要ではなかった。それよりも、プレイする自分が強くイメージできるか否かを基準にしたという。
そして2017年12月9日(日本時間10日)、大谷はロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムへの入団会見を実施した。奇しくも18歳のころの彼が北海道日本ハムファイターズの入団決断会見を行ったのと同じ日であった。
大谷がメジャー挑戦への思いを最初に口にしたのは、岩手県の花巻東高校時代だった。それから6年経ち、22歳の大谷は、来季の契約更改を前にメジャー挑戦への思いを再び口にした。だが周囲にとっては、それがメジャー挑戦のベストタイミングだとは言えないように見えた。
2016年の日本シリーズで、大谷は右足首を痛めた。それが侍ジャパンの強化試合で悪化し、2017年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)での代表辞退を招いた。怪我に加え、アメリカに行けばボールの素材は変わり、マウンドは日本より固い。体への負担は大きく肩肘故障のリスクもある。
花巻東高校時代の恩師である佐々木監督は、「もう少し日本でやってからでもいいんじゃないか」と大谷に伝えたという。それでもなお、彼はメジャー行きを決断した。
大谷と何度も面談を重ねた北海道日本ハムファイターズの栗山監督によると、彼は一度たりともお金の話をしたことがないという。それよりも、誰もやったことのないことをやるということに価値を見出している。成功するかどうかは問題ではない。チャレンジすることが嬉しくてしょうがないのだ。
大谷にとって父は指導者でもあった。中学までは父がコーチや監督として指導に当たっていたのだ。
親子であり、また指導者と選手の立場でもある。その関係上、息子である自分が試合に出るには、誰もが納得するほど圧倒的な実力を持っている必要がある。自分と同じくらいの実力の子がいれば、父はその子のほうを試合に出さざるをえない。大谷はそのことをわかっており、他の選手の何倍も何十倍も練習を重ねたという。
大谷と父の関係は「野球ノート」でもつながっていた。父がその日の評価やアドバイスを書き、大谷が試合での反省や今後の課題を記す、交換日記のようなものだ。野球ノートのねらいは、大谷に対する意識付けにあった。野球をやっていれば、エラーや三振はある。大事なのは、課題克服のために考え抜き、実行することだ。反省点と取り組みを自分の字で書かせることで、やるべきことを意識させるようにしていた。
野球ノートには、父による3つの言葉がしばしば登場する。
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