著者のビジネスは、大学時代に経験した小さなレンタルレコード店の店舗運営から始まった。300円で借りられるレコードを棚から引き抜き、ちらっと見ただけで戻してしまうお客さんを見ているうちに、お客さんの感覚を身体で感じ取れるようになっていった。ライバル店に勝ちたいという想いから、レコードランキングを作って掲示したり、入会金無料キャンペーンを実施したり、夜中に電柱に捨て看板を貼ってまわったりもしたという。
レコード会社としてのエイベックスは、イタリアでユーロビートのレコードを制作し、それを日本に輸入することから始まった。業界では「ユーロビートなんか売れない」と言われたが、普段から何千曲ものユーロビートを聴き込んでいた著者には勝算があった。ユーロビートと日本の歌謡曲は同じ構造だからだ。
イタリアで制作したのはわけがある。日本では権利上、レコード会社の垣根を越えたコンピレーションアルバムは作れない。ところが、いい曲だけを集めたコンピレーションアルバムをイタリアで制作して輸入するのは、何ら問題がなかったのだ。
そうしてできたのが『SUPER EUROBEAT』シリーズだ。800円で作り、2300円で販売した。2万枚売れればペイするが、結果は大儲けだった。
著者のモチベーションは「敵をたたきつぶすこと」である。レンタルレコード店で働いていたときは向かいの店が、ダンスミュージックのCD販売を始めると、東芝EMI(現・EMIミュージック・ジャパン)やアルファレコードがライバルになった。そして小室ファミリーがミリオンセラーを連発するようになると、小室さんがライバルになった。
小室さんのやり方は、すべてひとりで手掛けるというものだった。作詞作曲とアレンジにとどまらず、歌わせるアーティストすら自分で見つけるうえ、プロモーションまで一貫してやる。そんなやり方は小室さんにしかできない。
一方で、著者の周りには各分野に秀でた人材がたくさんいた。レコード店での経験から、売れる音楽かどうかは自分で判断できたので、彼らと力を合わせて曲を作る道を選んだ。小室さんに追いつくだけではなく、もっといいやり方があると考えたのだ。
初めて自分の名義でプロデュースしたのが浜崎あゆみだ。そのときも、周りの意見に左右されることはなかった。「浜崎あゆみは絶対に売れない」という業界関係者もいたが、そんな声には耳を貸さなかった。著者が浜崎にかかりきりになっていることをよく思わない社員には、「お前らのボーナスをこの子が稼いでくれるようになるよ」と言っていたという。
浜崎には、最初から「素でいけ」と言っていた。自分のことを「あゆ」と呼ぶなど女の子に嫌われる要素はあったが、彼女にはきちんとした内面がある。その内面さえ理解してもらうことができれば、最初に嫌われていればいるほど「好き」への振れ幅が大きくなるとわかっていた。いい詞を書くんだから、人生すべてを暴露してしまえという戦略である。
実際、
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