セゾングループが生み出した先駆企業の栄光と苦闘を、本書は克明に描き出している。無印良品を展開する良品計画、西武百貨店、パルコ、ロフトやリブロなどの専門店、グループ解体の序章となった西洋環境開発を中心としたホテル・レジャー産業。つづいて、吉野家を買収し、ファミリーマートを生みながらも、堤清二が一定の距離を置こうとしたチェーンオペレーション。本書はこうした順に構成され、最後に堤清二という人間像に迫っていく。本要約では、無印良品、西武百貨店、そしてグループ解体劇を中心にとりあげる。
では、堤が53歳という経営者人生の後半戦で生み出した無印良品が最初にくるのはなぜなのか。それは無印良品が、堤が痛烈な自己否定の精神を発揮し、その思想の結晶としてつくり上げたものだからだ。
セゾン文化の絶頂期である1980年、堤が世に放ったのが無印良品である。ロゴマークがついていれば商品が高く売れる。そして高級ブランドを身につけた人を見た消費者が、焦りと羨望から真似をする――。こうした消費社会に堤は異議を申し立てた。ブランド至上主義の行き詰まりを予見した堤は、無印良品を「反体制商品」と呼んだ。無印良品は、西武百貨店を通じた高級ブランドブームの火付け役となった堤の、自己否定そのものといえた。
当時ダイエーなどが先行していた格安のノーブランド商品が想起するイメージは、「安かろう悪かろう」だった。この印象を塗り替えられなければ、いくら節約志向が浸透しても、消費者に飽きられてしまう。そんな難題の突破口となったのは、堤がクリエイティブチームとともに構築した、新しい形のノーブランド商品だった。
アートディレクターの田中一光、クリエイティブディレクターの小池一子、インテリアデザイナーの杉本貴志。クリエイティブチームには、堤の事業で才能を発揮してきた人材が集まった。堤と文化論などを語り合いながら、商品の個性とコンセプトを固めていった。
彼らの共通認識は、「ロゴマークだけが一人歩きしてしまうのは生活者の感覚から離れている」というものだった。欧州の高級ブランド全盛期に、日本のものをきちんとつくりたい。そこで生まれた案が無印良品である。ノーブランドだけど品質はよく、飾りのない日本語。堤は即決した。
こうして、無印良品は西友のPB(プライベートブランド)という位置づけでスタートした。「他のスーパーのノーブランド商品はわけありげの商品。西友のはわけあり商品」。素材の選択、工程の点検、包装の簡略化。価格を安くできる理由を、パッケージなどを通じて、消費者にきちんと説明した。これにより「品質は一流」というイメージが浸透していった。
誕生から3年後、独立路面店の出店により、無印良品は一気に認知度を高めていった。1号店をオープンさせたのは青山の一等地。欧州の高級ブランドの路面店が立ち並ぶファッションの街に進出し、地味な無印良品をぶつけたい。そんな無謀な挑戦だった。センスのよい店構えでありながら、安価で飾りのない食品や雑貨が売られている。このユニークなギャップが世間の話題をさらった。商品の色やデザイン、パッケージの統一性から生まれるイメージ形成力は、無印良品の強みでもあった。
核となるコンセプトは、「消費者の自由の確保」である。アイテム数が増え、コンセプトが拡散しそうになるたびに、堤らは商品と向き合い、創業時のテーゼを愚直に確認してきた。
しかし、事業を軌道に乗せるマネジメント力が軽視されがちだったことは否めない。堤の掲げる理念と現実のビジネスのはざまで苦労したのが、1985年、無印良品事業部の初代部長に起用された木内政雄だ。「品質を良くし、品ぞろえをしっかりとさせる。問屋取引をやめて粗利を高める。それで確実に利益は上がる」。そんな信念のもと、硬直化しつつあった西友の影響が及ばぬよう、無印良品の分社化を実現。事業を拡大させた木内は1993年、良品計画の社長に就任した。
バブル崩壊後、セゾングループも銀行団からの圧力によって巨額負債への対応を迫られた。挙句には、西友が、ファミリーマートと良品計画の株式売却にまで追い込まれた。セゾングループの「突然死」は避けられたものの、堤に対し、社内外で「セゾングループを経営難に陥れたオーナー経営者」という印象が強まっていった。
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