著者は劣等感にまみれた少年時代を送った。劣等感の対象になったのは自分の顔だ。自分の顔が世界で一番醜いと思っていた。さらに自身の身体の小ささにも劣等感を抱いた。
嫌な思い出があるのは小学校高学年のときだ。佐々木先生という担任教師が著者を激しく嫌っていたのだ。彼女は自分の子どもを教室に連れてくることがあり、子ども好きだった著者はその子の相手をしてやっていた。すると先生は、「触らないで。あんたには触ってほしくないのよ」と言ってきたという。
同級生からもいじめられていた。当時から膨大な量の本を読んでいたし、自意識過剰なところがあった著者が目障りだったのだろう。
親には、いじめを受けていると伝えなかった。こども社会で疎外されていることが屈辱的だったし、母が学校に相談に来たら嫌だからだ。身体が小さくケンカも弱かったので、殴られたり屈辱的なあだ名で呼ばれたりしたが、すべて耐えるしかなかった。
このころ、通知表の性格に関する評価では、ほとんど最低評価をつけられていた。いじめっ子たちが先生に悪口を吹き込んでいたのだ。先生から「最低なやつ」というレッテルを貼られた悔しさは、いまだに消えていない。
同級生からのいじめは、中学校に進学してからも続いた。状況が変わったのは中学2年生の夏だ。いつもの連中から山の中腹にある神社に呼び出された。もう殴られっぱなしになるのはやめよう。その結果自分が死んだっていいし、相手を殺してもいい――そう考えた著者が道に落ちていた鉄製のパイプを見せ、「俺は本気だ。死んでもいい」と言うと、彼らはひるみ、逃げていった。それをきっかけにいじめはやんだ。この出来事から著者は、何かを変えるためには死ぬ覚悟を決めなくてはいけないことを学んだ。
著者が猛烈に本を読むようになったのは、現実世界で疎外感や孤独を抱えていたからだ。読書をしていれば自分だけの世界のなかにいられるし、誰かにいじめられることもない。だからこそ、著者の好む本には2つの傾向があった。
1つは動物と話したり、交流したりする話だ。ドリトル先生シリーズや『野生のエルザ』を愛読した。
もう1つは海外留学ものだ。植山周一郎の『サンドイッチ・ハイスクール』や大山高明の『アメリカ青春旅行』、加藤恭子の『ヨーロッパの青春』である。
この2つのジャンルから見えてくるものは何か。著者にはアナザープレイスへの願望があったのだ。現実世界で疎外感に苦しんでいるからこそ、ここではない他の場所の物語を求めていたのだろう。
中学校を卒業すると、県立清水南高校に進んだ。弁が立ち、成績もよかった著者は、学校全体のヒーロー的な存在になっていた。
校則を破るようなことばかりしていたのもこの時期だ。禁止されていたソフトボールの試合をやったり、政治的な活動をしたりもした。ベトナム戦争の反戦デモにも参加した。
読書体験に後押しされ、政治活動にのめり込むようにもなった。
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