診療現場では、医師と患者の双方が、相手の言っていることを正しく理解しなければならない。ここではいくつかの事例をもとに、行動経済学的な説明と医療者の対応を紹介する。
あるがん患者は、がんが転移するたびに薬を変えながら10年にもわたって抗がん剤治療を続けてきた。しかしあるときから抗がん剤の種類を変えてもがんが進行するようになり、別の持病も悪化したため、医師から抗がん剤治療をやめることをすすめられた。
だが患者は、「ここまでやってきたのだから」と抗がん剤治療を続けることを希望した。これまで耐えてきた10年間のつらい治療がすべて無駄になってしまう気がしたのだろう。
これはサンクコストの誤謬と呼ばれる心理現象である。サンクコストとは、過去に支払った費用や努力のうち戻ってこないもののことを指す。過去に行ってきた治療はこれからの治療の選択とは無関係だ。しかし患者の心理としてはそうはいかない。医師は患者の心理を理解したうえで、過去のコストよりも将来の費用と便益を強調して説明する必要がある。
半年前に多発転移の診断を受けて抗がん治療を受けていた患者に、新たな転移が見つかった。彼女は2種類目の抗がん治療を開始したが、骨の転移も増大し疼痛が出始めていた。そこで医師は、今後症状が悪化することも視野に入れ、早期に症状緩和専門の医師の同時診察を受けることをすすめた。だが彼女は、「痛いけれど新しい先生に診てもらうほどではない」「まだ大丈夫」などというばかりだ。
このとき彼女には、現状維持バイアスが働いていたと考えられる。現在の状態から何か変更することを損失とみなしてしまっているということだ。
主治医はそのことに気づき、「抗がん剤治療が2種類目になった方皆さんに一応お伝えしている」と前置きしたうえで、痛み止めを使っても改善しなければ専門の医師に診てもらうことを提案した。現状ではなく、標準的な治療法を判断基準にしてもらうように誘導したというわけだ。
危篤状態にある男性の妻が、医師から今後の説明を受けている。そこで医師は、「延命措置を行わないで自然な形で最期を迎えることを希望する」もしくは「心臓が止まったとき、延命措置を希望する」のどちらを選ぶかと、彼女に選択を迫った。
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