2016年の米国の大統領選挙は、多くの人にとってまだ記憶に新しい。事前の世論調査の結果から、多くの調査会社はヒラリー・クリントンの当選を予想しており、その確率は60~70%と見積もられていた。
だからドナルド・トランプが当選すると、マスコミや世間はいっせいに調査会社をなじった。「調査会社はミスをした」「ブックメーカーは間違いだった」というわけだ。しかしそれは30~40%というトランプ勝利の可能性が実現しただけにすぎない。それにもかかわらずメディアは、誰かがクリントンの勝利を事前に100%保証し、そしてその予測が誤ったかのように報じたのである。
私たちは結果を見たあとだと、事前に「どちらの可能性もある」と言われていたことを忘れてしまう。これは典型的な「後知恵バイアス」であり、不確実な現実を無視したオール・オア・ナッシング、すなわち「白黒思考」に他ならない。事前予想では0%から100%までさまざまな可能性が考えられたのに、結果が出るとそれを無視してしまうのだ。
この選挙結果のように、30%~40%という確率の出来事が実現するのは決して珍しいことではない。私たちは経験上、そのことを知っているはずである。にもかかわらずその事実は無視されてしまうことが多い。
私たちは結果だけを見て、その判断が100%正解だったか、それともまったく間違っていたのかを評価しがちだ。しかし「確率」という観点では、正解と間違いのあいだには大きな幅がある。「意思決定には正解と誤りしかない」という考えを捨てたとき、両極のあいだを行き来できる自由が手に入れる。より良い意志決定について考えることは、白か黒かで判断するのをやめ、あいだのグレーに色調の目盛りをつけることなのだ。
「意思決定は未来に対する賭け」だと考えよう。そうすれば一度の結果の良し悪しで、それが「正しかった」か「間違っていた」かと判断することはなくなる。なぜなら意志決定そのものが正しくても、運や情報の不完全性が結果に影響すると考えられるようになるからだ。
物事を確率論的に考えられるようになれば、たとえ結果が悪かったとしても、そこから感じるあらゆる苦痛から解放されるだろう。結果が悪かったからといって自分が間違っていたわけではないし、結果が良かったからといって自分が正しかったわけでもないのである。
たしかに「自分は正しい」「こうなると思っていた」「ほら、言っただろう」と言うのは気持ちがいいことだ。しかし「間違う」ことの苦痛から解放されるためには、こうした「正しい」ことへの快感も手放さなければならない。そしてこの快感を手放すということは、私たちの判断を曇らせる、さまざまなバイアスから解放されるということでもある。
質の高い意思決定をするためには、物事や状況をできるだけ客観的に見なければならない。しかし往々にして、私たちのもつ主観がその妨げとなる。
私たちの主観を形成するメカニズムは、じつのところかなり単純だ。最初に得られた情報を真実と判断するのが私たちの初期設定である。そして新しい情報が入ると、それに合わせて主観を変えるのではなく、最初に形成された主観に合うように情報をねじ曲げて解釈してしまう。自分の主観に真っ向から対立する事実があったとしても、私たちはその事実を簡単には受け入れない。とにかく自分を肯定し、すぐれた自己イメージを保ちたいからだ。自分が「間違っている」ことは、その自己イメージにそぐわないのである。
ここでもオール・オア・ナッシングの思考が垣間見える。
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