冒頭では、100歳を目前に控えた橋本氏が灘中学校の教壇に27年ぶりに戻ったエピソードが語られている。この授業で「学ぶことは遊ぶこと」「当たり前のことに疑問をもつ」「意味がなくてもおもしろければいい」「横道にそれる」といった橋本氏が大切にしてきた考え方が現在の生徒にも伝わったと実感している。
橋本氏は灘校で1934年から1984年までの実に50年間、国語教師として教鞭をとり続けた。その50年に及ぶ教師生活、また橋本氏の人生も振り返りつつ、人生を豊かにする「学ぶ力」とはどのようなものなのかを探っていこう。
東大合格者数全国一に導いた授業というと、スパルタで詰め込み型の授業を想像するかもしれない。しかし、後にスローリーディングと名づけられたその授業はそもそも生徒を東大に入学させるため、それどころか受験勉強のために生み出されたものではない。
授業は、橋本氏の「何とか生徒の心に残って、生きる糧となる授業がしたい」という願いから生まれている。きっかけは自分が受けた国語の授業の内容がほとんど記憶に残っていないことに愕然としたことだった。唯一記憶に残っていたのが小学校3年生のときの教科書を使わずに物語のみを使った授業だったことから、物語を教材にしようと決めた。そして決めた題材は、中勘助の小説『銀の匙』。更に橋本氏の手づくり副教材「銀の匙研究ノート」を準備する。そして、『銀の匙』を中学校3年間かけて読ませるのである。
「銀の匙研究ノート」には7つのステップがある。「通読」「主題」「内容の整理」「語句の意味」「注意すべき語句」「短文の練習」「鑑賞」「参考」である。
まず、各章を一通り読み(「通読」)、章ごとのタイトル決め(「主題」)、どんな順序で内容が書かれているか整理(「内容の整理」)、語句の意味を覚える(「語句の意味」)。注意すべき語句を自分で調べたり友人の意見を聞き、その語句をつかった短文を作り(「注意すべき語句」「短文の練習」)、感心した文を書き写してなぜ優れているかを考え(「鑑賞」)、「銀の匙研究ノート」にあらかじめ書かれてある関連事項をよく覚える(「参考」)というものである。ここで興味深いのは、文章を書くことを重視しており、その機会を多く作る構成となっている点であろう。
また、「銀の匙研究ノート」は「とにかく子どもたちが進んで面白がり、また、横道にそれるような要素」がふんだんに盛り込まれていた。例えば、凧揚げのシーンが出てくると外に出て凧揚げをし、駄菓子がでてくると駄菓子を食べ、百人一首がでてくれば百人一首大会をしている。勉強というと教師や参考書から得た知識を一人孤独に覚えるというイメージがあるが、「奇跡の授業」では、当たり前だと思っている言葉に立ち止まることやクラスでの話し合い、実際の経験が重視されていたのである。
「奇跡の授業」の背景には、橋本氏の教育哲学ともいうべき信念がある。例えば、「横道にそれる」「遊ぶことは学ぶこと」「当たり前のことに疑問をもつ」「意味がなくても面白ければいい」「すぐ役に立つことはすぐ役に立たなくなる」などである。そして、それを実践することが一生役立つ学ぶ力を身につけるということだ。
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