著者は、イラク北部にあるシンジャール地方のコーチョの村で生まれ育った。この村の住民は、全員がヤズィディ教徒だ。コーチョは他のヤズィディ教徒の村と遠く離れており、イラクのスンニ派アラブ人とスンニ派クルド人のあいだに立たされ、いずれかのアイデンティティを選ぶよう求められてきた。彼らは何世代も前から殺害や改宗、収奪といった攻撃にさらされており、外部勢力から73回にわたって攻撃されてきたという。
2014年の夏、村のはずれで、農家の男性ふたりと雌鶏一羽、雛鳥数羽が姿を消した。著者が高校最後の年の始まりに向けて準備をしていたころだった。雌鶏一羽と雛鳥数羽――それらが示唆するものが明らかになったのは、それから2週間後、ISISがコーチョの村を制圧したあとのことだ。雌鶏は村の女、雛鳥は子供。つまり、村の女性と子供を連れて行くという「メッセージを送っていた」というのがISISの言い分だった。
両親が離婚すると、母と子どもたちの暮らしは貧しくなったが、母のがんばりと2003年以降のイラク北部の経済成長のおかげで、少しずつ生活環境が整っていった。母はあらゆることを冗談に変え、失敗を笑い飛ばせる人であった。著者はそんな母を慕い、愛おしく感じていた。
コーチョは子供が多い村だ。それゆえに親の負担は大きかった。だがそんな苦労があってもなお、著者が村を離れたいと思ったことはなかった。暑さの厳しい夏は、夜になればみんなで屋根にあがり、家族や隣人とおしゃべりをして過ごす。農作業はきつくても、それをこなせばつつましく楽しく暮らせるだけの収入があった。何より家族がそこにいた。著者には8人の兄、2人の姉、腹違いのきょうだい2人がおり、全員が近所に暮らしていたという。
特に母は、21年間の間、著者の生活の中心にいた。当時の著者には自宅にメイクアップサロンを開店するという夢があり、その計画を母に話していた。計画に賛同しながらも、どこへも行かないでという母に、著者はいつも「絶対に母さんを置いてなんていかない」と答えていた。
ヤズィディ教では、神によって世界の運命をゆだねられたクジャクの姿をした大天使、タウセ・メレクを信仰する。聖書やコーランのような聖典はない。そのため、ヤズィディ教は“本物の”宗教ではないという人もいる。タウセ・メレクが降臨した水曜日を休息と祈りの日とし、シャワーを浴びないというヤズィディ教徒もいるが、それを理由に「ヤズィディ教徒は汚い」といわれることすらあるなど、小さなことでも非難の対象になってきた。
ヤズィディ教徒は、教徒以外との結婚は許されておらず、また他教からの改宗も認められていない。コーチョでは一日3回のお祈りが一般的で、祈る場所の指定は特にない。ヤズィディ教徒は自分たちの宗教に誇りを持ち、ほかのコミュニティからの排除にも甘んじて生きてきた。
コーチョの村に学校が建てられると、授業はクルド語ではなくアラビア語で行われた。教科書の中にヤズィディ教は存在せず、クルド人は敵として登場する。そしてアラブ系のイラク人が、植民地支配をしていたイギリス人たちと戦った英雄として描かれていた。
のちにISISがヤズィディ教徒の村を攻撃したとき、イラクの他の住民たちが行動を起こすことはなかった。著者はその理由のひとつとして、こうした教科書を使った教育があったと断言する。イラクの公教育は少数派の宗教を無視し、イラクが戦争を行うこと自体をも正当化していたのだ。
2003年、アメリカ軍がバグダッドに侵攻した。コーチョの村人たちは携帯電話を持たず、他の村とのつながりもなかったため、サダム・フセインの失脚をかなり遅れて知ることとなった。
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