中小企業が継続的に成長していくためには、事業承継を乗り越えなければならない。その際、最初から子どもに事業承継しようと決めつけず、あらゆる可能性を検討することが大切だという。身内でも、長子、長男にこだわることはない。
もし「こいつに継がせたい」と心に決めた後継者がいれば、1日でも早く引き継ぎをしたほうがいい。トップが元気なうちに事業承継すれば、さまざまな面でフォローでき、新しい体制への移行がスムーズに運ぶ。社内の不平不満を抑えられるし、二代目を鍛えることもできる。得意先や取引先との生きた人脈も、しっかりと引き継げるだろう。
玉子屋は、会長が57歳のとき、まだまだ元気で業績を伸ばしているタイミングで事業承継した。会長は、著者の入社が決まった時点で「今度から息子に一任する」と公言していたという。
子どもの頃の著者は、リトルリーグで「弁当屋の息子」と呼ばれ、家業を恥じていた。そもそもリトルリーグは後継者教育の一環で、チームプレーを学ぶために強制的に入部させられたものだった。
その後、中学、高校、大学と、プロを目指して野球を続けた。だがあるとき、プロの練習を間近で見る機会があった。プロとのレベルの差を思い知らされた著者は、野球をすっぱりあきらめて銀行に就職する。
銀行に4年勤めた後、小さなマーケティング会社に転職した。マーケティング会社で働き出すと、玉子屋から社員3人分の弁当が配達されるようになった。玉子屋の弁当を食べたのは、そのときが初めてだったという。「この値段でこのクオリティはなかなか出せない、親父やるな」――ここでやっと、玉子屋の凄さを理解した。
同時に、配達する人の対応によって弁当の価値も変わってしまうなど、お客様の立場に立ったからこそ課題も見えてきた。自分が中に入ればもっといい会社にできるという思いが芽生え、徐々に気持ちは玉子屋へと向かっていった。継げと一言も言わない会長の二代目教育と作戦が功を奏したのだった。
著者が常務として玉子屋に入社したのは1997年、27歳のときだ。玉子屋の全体会議で入社挨拶をするとともに、「今日をもって社長は死んだと思ってください」と宣言したという。入社5年目の2002年には副社長に、2004年には社長になったが、実質的には入社したタイミングから経営を任されていた。
著者が入社したころ、社長と主力の幹部社員は全員50代後半から60代。トップの血縁だからといって、20代の常務に従うはずもなかった。
幹部社員と良好な関係が築けるかどうかは、事業承継の成否にかかわる重要な問題である。割り切れない気持ちのままでは、業務に支障をきたしかねない。そう考えた著者は、一人一人と個別に飲んで話をすることにした。
社員全員と話し終えた頃には、1ヶ月が経っていた。従業員との交流を通して知ったのは、会長の存在感の大きさだ。皆がいかに会長を慕っているのかを理解できた。
幹部社員には、温故知新の方針を説明した。会長がやってきたことで、よいと思うことは引き続きやる。だが同時に、時代にあわせた新しい試みも始める。頭ごなしに反対せず、とりあえずついてきて欲しいと伝えた。
玉子屋は、1日に最大で約7万食を製造、提供している。東京ドームの収容人数が約4万6000人だから、超満員の東京ドームのお客様に配っても食べ切れないくらいの数だ。
注文は契約している約5000社の事業所から入り、配達ポイントは1万ヶ所ほど。毎日朝9時から10時半までの1時間半で注文を受け、昼の12時までに配達することとしている。
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