17世紀、神聖ローマ帝国(ドイツ)での宗教内乱に端を発した「三十年戦争」は、欧州の各国・地域を巻き込むことになった。その後、1648年に締結された「ウェストファリア条約」は、現在にも続く国際間の枠組みの基礎となった。
条約では、欧州の諸侯・都市が「主権国家」として独立を認められ、中世以来のローマ教皇や神聖ローマ皇帝といった超国家的な権威が否定された。「主権」とは、何者にも従属しない最高権力を意味する。条約以降、各国間の内政の不干渉と、対等な外交関係が大原則となった。これをウェストファリア体制という。
一方、インドのムガル帝国や東アジアの中華帝国(明・清)などでは、小国が帝国に朝貢し、帝国が小国へ莫大な金額の下賜や軍事援助を与えるという関係で、国際秩序が維持されていた。豊臣秀吉が朝鮮へ攻め込んだときも、朝鮮王からの要請に応えて明からも兵が派遣された。国際平和維持軍の役割を帝国が果たしていたのだ。
欧州の場合、超国家的存在を否定することで調停者も失ってしまい、ウェストファリア体制後も戦争は続くこととなった。そうしたことを見通していたオランダの法学者、フーゴー・グロティウスは、国家間の法の上に人間の生命や自由を保障する自然法があり、戦時にも自然法が守られるような国際的な取り決めをすべきだと説いた。
ウェストファリア体制以降、欧州各国はさらに条約という形で国家間の関係を維持し、一定のルールのもとに戦争の被害を抑制しようとした。
18世紀のスイスの法学者エメリヒ・ヴァッテルは、グロティウスの考えを発展させ、著書『国際法』で近代国際法を具体的に構築した。ヴァッテルは、個人が自然権の一つとして生存権を持つように、国家も自衛権を持ち、自衛権の発動が戦争であると考えた。その上で、戦争の被害を最小化するためのルールを定めた。たとえば、戦闘員と非戦闘員を区別する、開戦と停戦を明確に宣言するといったことである。
さらに、ナポレオン戦争の終結で、1815年に「ウィーン議定書」が交わされたのを機に、条約の締結手続きや特命全権大使・公使の常駐などの外交儀礼がほぼ確立された。これを、アメリカのヘンリー・ホイートンが、1836年に『国際法原理』を著して集大成した。ただし、清朝と外交を結ぶための西欧の武力行使であったアヘン戦争からもわかるように、当時アジア・アフリカ諸国は「非文明国」であるために近代国際法の「適用範囲外」とみなされていた。アヘン戦争後、『国際法原理』は翻訳され、欧米諸国の脅威に直面した東アジア諸国で読まれるようになった。
ペリー来航以来、欧米の圧力にさらされていた日本は、主権を持った「文明国」の一員として認められる必要を自覚した。そのために取った戦略が、第一に海軍力の強化であり、第二に近代国際法をマスターすることだった。
かたや欧州では、ナショナリズムの高揚とともにドイツ・イタリア諸国に革命が広がった。ドイツではビスマルクが外交交渉によって複雑な同盟関係を結び、ドイツ帝国が建設され、ヨーロッパの勢力均衡に変化が生じていた。
このビスマルクのもとを、
3,400冊以上の要約が楽しめる