偉いと思われたい。お金が欲しい。成功したい。そのような考え方で書く文章は、人には読んでもらえないだろう。本書は、そうした空虚な目標に向かったり、そのための文章術を紹介したりするものではない。「書くことの本来の楽しさと、ちょっとのめんどくささ」を知ってもらいたいという気持ちで著すものである。
まず理解しておきたいことは、「文書」と「文章」の違いだ。「文書」は問題解決や目的達成のために書かれるもので、レポート、論文、メール、報告書、企画書などがこれに該当する。端的にいえば、業務用である。一方の「文章」は、「書きたい人がいて、読みたい人がいる(かもしれない)」という性質のものだ。
ネットを開けば目に入る、ブログやコラム、FacebookやTwitterの投稿なども「文章」である。そしてさらにいえば、それらの文章の正体は「随筆」である。「随筆」を、著者は「事象と心象が交わるところに生まれる文章」と定義する。「事象」とはあらゆるモノ、コト、ヒト、つまり個人が見聞きしたことや知ったことである。「事象」に触れて心が動き、書きたくなる気持ちが生まれることが「心象」だ。書きたい人や読みたい人が多くいるボリュームゾーンは、じつはこの事象と心象について書く「随筆」なのである。
世の中には事象を中心に記述した文章も、心象を中心に記述した文章もある。前者のタイプの文章は「報道」や「ルポルタージュ」と呼ばれ、後者は「創作」や「フィクション」と呼ばれていて、それぞれ随筆とは異なる分野の文章である。
「ライターになりたい」という人でも、自分が書いていこうという分野に無自覚な人は多い。ネットになにかを書いて読者の支持を得ようという、いま一般にいわれる「ライター」志望の人は、まず「随筆」という分野で文章を綴っているのだと自覚すべきである。
例えば映画を評論しようとして、事象寄りに振れてあらすじばかりを書いたり、心象寄りとなって感想だけ書いたりして終わってしまう人がいる。定義をしっかり持っておけば、自分がいま、何を書いているかを忘れずにすむだろう。
無数にある文章術の本には、このように書かれている。「読む人はだれかをはっきりさせて書きなさい」。いわゆる、「ターゲット」ということについてである。
しかし、その「ターゲット」に言いたいことが「届く」ことなど、そんなにあるだろうか。著者が24年間働いた、まさにターゲット論の世界である広告業界においても、メッセージはテレビや新聞など不特定多数が目にするところに「置かれる」だけだ。「届けられる」のではない。
だからこそ、書くにあたっては、読み手など想定しなくていい。その文章を最初に読むのは、間違いなく自分である。自分で読んでおもしろくない文章なら、書いても無駄になるだろう。
「自分で読んでおもしろい文章」とは、なにか。それは、「まだだれも書いていない文章を自分で作る」ということだ。
例えば映画を観れば、おもしろかったことや疑問に感じた場面など、さまざまなことを思うはずだ。
しかし映画のパンフレットから Twitterまで、世の中には無数の映画レビューがある。それらを読んで、自分より豊かな語彙で感想が書かれていたり、疑問に対する考察が見事に展開されていたりすれば、もはやなにも書く必要はない。反響はさほど得られないだろうし、他人の真似で原稿料をもらおうとすれば、賞賛ではなく警察がやってくる。
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