「身銭を切る」という概念は、単なる金銭的な話ではない。「何かがうまくいかなかった場合に相応のペナルティを支払う」という意味合いを持っている。端的に言えば、利益の分配ではなく、対称性の問題だ。この概念は世の中で起こるさまざまな事象に当てはめることができ、難問を解くヒントにもなりえる。
本書において、著者は、身銭を切らない人びとを批判する。著者にとって、身銭を切るという行為の本質は、公正、名誉、犠牲といった、人間の実存にかかわる物事にあるからだ。
知識とは、自らの体験や試行錯誤に基づいて得られるものだ。
ここで重要なのは、試行錯誤する過程において、本人がリスクを負っている、つまり身銭を切っていることだ。身銭を切ることで負の影響を被るかもしれないが、そこから学んだり、新たな発見をしたりすることができる。そうして得る知識は、(学者たちが行いがちな)純粋な推論を通じて得られる知識よりも、ずっと優れたものだ。
身銭を切っていないのは学者だけではない。世の中を牛耳る政治家や権力者たちも、身銭を切らない。たとえば、アメリカは「独裁者を排除する」という大義名分のもと、さまざまな手段を講じてきた。そうした手段は、結果として、テロ組織の誕生や戦争など、多くの惨事を招いている。
著者は、自分の範疇の外にあるものに対して悪い影響を与える人々を「干渉屋」と呼ぶ。そして、干渉屋の欠陥は「動ではなく静で」「高次元ではなく低次元で」「相互作用ではなく行為という観点で」物事をとらえる点にある。自分の行動による2次的・3次的影響を考えず、いざ想定外の事態が起きると「ブラックスワンだ」と騒ぐのだ。
干渉屋の問題点は、彼らは何の損失も被らないということである。エアコンの効いた快適なオフィスで意思決定を行い、たとえそれが間違っていたとしても損害を被ることはない。そのツケを払わされるのは、シリア人であり、イラク人であり、罪のない人々なのだ。ここから得られる原理原則は「リスクを負わぬ者は、意思決定にかかわるべからず」である。
一方、過去の偉人たちは、常にリスクを負っていた。ローマ皇帝のユリアヌスは、戦いの最前線で命を落とした。そのほかの歴代ローマ皇帝の多くも同じくである。彼らは、名声と引き換えにリスクを負うからこそ、人民の庇護者であり、貴族たりえたのだ。
エージェンシー問題という言葉がある。これは、代理人(エージェント)と依頼人(プリンシパル)のあいだの利害の不一致のことだ。自動車のセールスマンと車の購入希望者、医師と患者などが、その一例である。
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