「面白い」という言葉は、いろいろな意味で使われている。人に言う場合は褒めたり共感を求めたりするときに、自分一人でも、ふと呟きたくなるときにこの言葉が出る。
基本的に「面白い」という言葉は、笑顔を連想させる。それは楽しいもの、好ましいもの、自分が欲しかったもの、満足できるものに対する感想だ。大きく分けると、笑えるような「面白さ」と、興味をそそられる「面白さ」があるように思われる。とはいえきっちりと分かれてはいないし、両方の要素を持っているものもたくさんある。
見ただけ、聞いただけで笑えるようなものを「面白い」という場合、これは「可笑しい」と同じ意味だ。たとえば漫才や落語などは、笑うことを楽しみにして観るものである。笑わせてくれる人に対しても、「面白い人だ」と言う。逆にさほど笑えなかった場合は、「面白くなかった」と評価する。漫才や落語に対して、「笑えないけれど、面白い」という評価はあまりない。そこでは、あくまでも可笑しさが面白さとイコールなのだ。
人が笑うのは、泣いたり怒ったりするよりも良い状態だ。笑っているから良い状態なのではなく、良い状態だから自然に笑う。そういうふうに人間はできている。「笑う門には福来る」という諺のとおり、「面白い」は幸せを連想させる感情なのである。
「面白い」にはそれ以外の意味もある。たとえばなにかにハマっている状態のとき、人はそれを「面白い」と感じる。夢中とは興味が集中する状態であり、ある対象に「興味を持った」とき、それを「面白い」と形容することになる。
この「面白い」は、ギャグで大笑いする「可笑しい」とは明らかに違う。たとえば数学やパズルなどで難しそうな問題に直面したとき、「面白い」と思う人たちがいる。そのとき顔は笑っていないかもしれない。だが彼らは真剣に考え、「面白い」という言葉で自分の感情を表現する。
少しニュアンスが違う「面白い」もある。たとえば「珍しい」、「趣がある」、「気持ちが良い」といった意味で、「面白い」というときがある。コレクションをしている人が、いままで見たことがない品物に出合ったときなどに、目を輝かせて「面白い」と呟く。あるいは日本庭園や茶室などで凝った造形を見て、「面白い」と思うこともある。あるいはスポーツをして一息ついたときに、「面白い」と感じることもあるはずだ。
共通するのは、どれも自分にとって好ましい状態であること、自分が好む状況になることといえる。ほかの言葉を使うなら、「満足」が近いかもしれない。
なにが面白いかは、人の「感覚的」なものであって、「面白さ」を生み出す確固たる手法は存在しない。だからこそ「面白さ」をつくることを仕事にしている人たちが大勢いる。みんなが試行錯誤して、次々と新しい「面白さ」を世に問う。大衆に受け入れられれば、大儲けができるし、一躍人気者にもなれる。でもそれはけっして簡単ではない。「これが売れる方法だ」というノウハウは存在しないからだ。
大勢の知恵を集めても実現しないのが「面白い」である。
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