未知の感染症にさらされたときにまず大事なのは、マスクが必要かどうかといった個別イシューよりも、情報・知識・事実をつかむことである。そして、誰にとっても未知の存在なのだから、「こうすべき」と結論を決めつけず、ゼロベースな態度で臨むほうがよい。本書では、市民が感染症に対して「正しく判断」できるよう、感染症に向き合う時の原則を中心に紹介する。
そもそも「ウイルス」とは、「ほかの生物の細胞の中に入らないと生きていけない微生物」のことだ。コロナウイルスは、コロナと呼ばれる冠状のギザギザがついたウイルスを指す。従来のコロナウイルスのうち4種類は、一般的な風邪症状を引き起こす。基本的には安静にすることで自然に治る。
一方で、2002年に中国の広州で発見されたSARS(重症急性呼吸器症候群)コロナウイルス、2012年に中東のラクダから感染が始まったMERS(中東呼吸器症候群)コロナウイルスは、致死率が高く危険視されてきた。首から下の呼吸器症状を引き起こし、何割かは重症化する。MERSは現在でもラクダから感染する可能性はあるが、両方とも感染対策によって流行は収束した。
これらに引き続く第7のコロナウイルスとして登場したのが、今回の「新型コロナウイルス」だ。おそらく2019年の暮れ、中国・湖北省の武漢で人に感染を始めたが、当初はヒトからヒトには感染しないと考えられていた。だから、2020年の春節の時期にたくさんの人が移動し、一気に武漢の外へと感染が拡がったと言われている。2020年3月12日にはWHO(世界保健機関)が、世界中で流行している状態であるパンデミックを宣言した。
新型コロナウイルスの感染症状は、一般的な風邪の臨床症状を比べても、最初の症状はほとんど変わらない。8割方は、症状が出ても軽いものが1週間くらい続いてからそのまま治ってしまう。SARSや新型インフルエンザのように、最初に高熱が出たりはしない。罹り始めの症状が軽いせいで自分が感染していることに気づかず、外に出かけてしまう。そして、残りの2割の人は、息が苦しくなる気道感染の症状にみまわれ、重症化する。つまり、時限爆弾のようなウイルスなのだ。ずっと普通に過ごして多くの人にうつす機会を与えておいてから、2割の人を危険にさらす。こうした感染症の拡がりを止めることは、極めて困難だ。
そして巷でよく言われるように若者が感染を拡げているとも限らない。中国のデータからは、40代後半以上で感染しやすく、重症化しやすいことがわかっている。それに、ライブハウスなどには40代や50代の人もよく行くだろう。このことで世代間対立を煽るのはナンセンスだ。また、北海道のデータからよくわかるように、そもそもの 問題は閉じた狭い空間にたくさんの人が集まることでクラスターが発生することである。街を歩いていてウイルスがうつることはめったに起きない。政府などが集会などを避ける対応を促しているのは、じつに適切なことだ。
検査方法として「PCR」という言葉がよく紹介されているが、この検査では、罹っていることはわかっても、罹っていないことは証明できない。病気の人を100人集めたら何回陽性になるかを示す「感度」が、6~7割しかないからだ。つまり3割以上の新型コロナウイルス感染者を見逃している計算になる。また、サンプリングの仕方やウイルスの状態によって、本当は陽性なのに陰性と出る可能性もある。そのほか、迅速に検査できるキットやCTスキャンによる肺炎検査なども行われているが、どれも100%正しいとはいえない。検査はよく間違えると思った方がよい。
それに、2020年3月の段階で、「これが効く」と確定された治療薬は見つかっていない。8割の人は勝手によくなるので、この薬を使ったからよくなった という因果関係がわからない。
つまり、100%正しく、診断することも治療することもできないのだ。だから著者は、正しく診断することよりも、症状から正しく判断することが大事であると説く。これは新型コロナウイルスに限らず、インフルエンザなどでも同様だ。インフルエンザの検査感度は6割程度と言われている。検査が確実ではない以上、家で安静にしていれば治る状態なのか、高熱や呼吸器障害などが生じていて隔離や入院が必要な状態なのか、症状によってその都度判断するしかない。
個人でできる感染症対策を紹介する。まず前提として、ウイルスは自然発生しないので、必ずどこかからやってきて、どこかに伝播していく。つまり、感染経路を踏まえておくことが重要だ。
新型コロナウイルスの場合、母子感染や空気感染はしないと思われるので、飛沫感染と接触感染に気をつける必要がある。飛沫感染は、口や鼻の中の成分が水しぶきになって拡がる現象のことを指し、飛距離は大体2メートルとされる。接触感染は、消毒をしないと数日間生き延びると言われている、落ちた飛沫に含まれるウイルスに触れることで起こる感染のこと。
これらの感染を避けるためには、まず患者の隔離が必要だ。そして、どこにウイルスがいるかわからない以上、どこにでもウイルスがいると思って対応することが大事である。ここで覚えておきたいのは、飛沫は人間からしか出ないこと。つまり、一度床に落ちたものが再び水しぶきとなって浮上することはない、ということだ。
この前提に立てば、手指消毒をすること、手が清潔であることが何より重要になってくる。靴底をなめ回したりしない限り、床に落ちたウイルスから感染することはない。 誰かが手を触れたところをすべて消毒することは不可能に近い。そうした環境に神経質になる前に、自分自身がしっかりと手指消毒し、鼻や口には触らないようにすることが最大のリスクヘッジとなる。
世の中ではマスクをすることが当たり前になっている。しかし、感染を起こしていない人がマスクをするのは無意味だ。また、市販されているマスクの多くは密閉できるわけではないので、隙間から容易にウイルスが侵入する。咳などの症状がある人だけ、飛沫を飛ばさないようにマスクをすればよい。
要するに、仮に自分がウイルスを持っていても、咳やくしゃみをしていなければ飛び散らないし、きちんと手指消毒をしていれば接触感染もおきないということだ。感染したくないからと部屋に閉じこもるのは逆に不健全である。私たちが求めるべきは、より低いリスクであってゼロリスクではないのだ。
ここで少し見方を変えて、日本における新型コロナウイルスの感染源の一つとなったダイヤモンド・プリンセスのストーリーを紹介する。
クルーズ船という閉鎖空間が感染症に弱いことは、感染症の専門家の間では昔から常識であった。しかし、おそらく日本の官僚たちはそのことを理解していなかった。
顕著なのは、感染症対策で着用する個人防護服のPPEだ。飛沫感染から目や口を守るために、ゴーグルやマスクをし、接触感染を防ぐために胴体を守るガウンも着用する。それ自体は今回も行われていたが、ウイルスにまみれたガウンを脱ぐとき、ウイルスが手に付いたりしないためには技術が必要となる。その技術を習得するために、何度も練習しなければならない。今回クルーズ船に入っていったのは、PPEの着用に慣れていない人たちだった。
また、感染経路は飛沫感染と接触感染しかないので、「ここから先は感染しない」というゾーニングが重要になってくる。感染のリスクがあるレッドゾーンではPPEを着用し、そうでないところでは脱がなくてはならない。しかし、ダイヤモンド・プリンセス内部では、PPEを着る職員の横で、背広を着た人物が携帯電話を使用していた。レッドゾーンでは手に触れるものはすべて「汚いもの」なので、携帯電話を持ち込むことは論外だ。
そうした危険性を 訴え、改善を求めても、著者は煙たがられ、遠ざけられた。厚労省の役人は、「二次感染は起きていない」という神話にこだわった。
リスクコミュニケーションで大事なことは、情報公開と透明性を担保することである。日本は、ダイヤモンド・プリンセス内部の感染状況について矮小化して伝え、対応が失策に終わったことを認めていない。国際的には、失敗であることがコンセンサスとなっているにもかかわらず。そうなるのも、アメリカの疾病予防管理センター、CDCのような、責任と権限を持って感染症に関わる専門家機関が日本には無いからではないか、と著者は考える。感染症の対策は感染症の専門家がやるべきであり、素人が手を出すところではない。
日本の感染対策が目指すところは間違っていないし、全体的にはうまくいっている。「完全に押さえ込む」ことはどだい無理な話なので、それを目標としていないことは評価できる。たしかに水際作戦はうまくいかず国内に感染は拡がった。それでも、医療にかかる荷重を減らすことを目的として、重症者を中心にPCR検査を進め、軽症者には検査しない方針をとったことは、医療体制を維持するうえで正しい判断と言える。
ただ、日本社会ではさまざまな誤解が生じている。「37度5分以上の熱が4日間続いたら病院へ」という基準も、厚生労働省が勝手に決めたことで、科学的根拠があるわけではない。
しかし、保健所も医療機関も、その政治的な基準を絶対的な基準として受け入れてしまう。保健所あるいは医療機関が自分たちでしっかり判断し、必要な人に検査を行なって、アウトブレイクの可能性を見逃さないようにしなければならない。日本では、PCR検査での陽性率が10%を超えている地域もあり、感染者を完全に補足できていない可能性がある。そうした地域では、油断せずにもう少し検査数を増やしていくことも必要だ。
日本で感染が拡がっている背景として、仕事を休みにくいシステムになっていること、必要も無い症状なのに病院に行く人が多いこと、満員電車はなくならないと思い込んでいることなどが考えられる。 「余裕を許さない」状態だ。多様性を認め、みんなが同じであるという幻想を捨てることで、全員が楽になれる。
また、マスクやトイレットペーパーを買い占める動きは、日本だけでなく世界中で起きている。パニックも間違いも世界中で起きる。民衆におけるこの同調圧力はとても強い。そこで、「パニックを起こしている場合ではないでしょう」と言い続けるのが国の役割だ。しかし日本政府は、そのパニックにむしろ乗っかってしまい、「マスクを増産しよう」と言い出してしまう。メディアもそれに乗る。すると、人びとが一つの意見に流れてしまう。正しいことをやっていると信じている全体主義ほど恐ろしいものはない。
日本では、「安全・安心」とひとまとめにした言い方がされる。これを著者は、間違ったコンセプトだと一蹴する。「安全」とは、危険性が除去、あるいは低減された状態を指す。一方「安心」は、対策を行なった結果生まれた「安全」からは外れたところに生まれる概念で、安心したいという願望、欲望だ。専門家は「マスクをするだけではウイルスを防げない」と言っているのに、「何かやっておくと安心する」から、みんなマスクを求める。求めるべきは、こうやったら感染を防げる、という安全だけなのだ。
また、人間は間違えるものだという前提を忘れてはいけない。ましてや新型コロナウイルスのように誰にとっても未経験のものに対しては、意見がぶれない方がおかしい。だからこそ専門知に対する信頼が重要になってくる。そして、その知性を各人が理解できるまで、じっくり待てる社会をめざしていくべきだ 。理解にかかる時間は人によって違うのだから。
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