マーク・ランドルフとリード・ヘイスティングスは、交代で車を運転しながら一緒に通勤をする仲だった。1997年当時、著者マークにわかっていたのは起業してネット販売をやりたいということだけだった。
車中では、考えたアイデアをリードにぶつけるものの、ことごとく跳ね返される日々だった。ある日、ビデオのeコマースというアイデアが、リードのアンテナに引っかかった。ここからすべては始まった。役割としては、マークが自分の時間を投資する、リードが資金を提供することに決まった。すなわち経営者と投資家である。
“That will never work”(それ、絶対うまくいかないわ)。これは、マークの妻ロレインが最初にこのアイデアを聞いたときの反応だ。何よりコストがかかりすぎる。だが、DVD郵送レンタルならうまくいくのではないか。マークはそう考え、アイデアの実現に向けて動き出す。
1998年4月14日、ネットフリックスのサービスが立ち上がる。アメリカ初のインターネットDVDレンタル店だ。DVDプレーヤーのオーナーは、住んでいる場所に関係なく、あらゆるDVD作品を確実に購入したりレンタルしたりできるようになると謳った。
マークが最初にとりかかったのは、DVDおよびDVDプレーヤーのマーケット開拓だった。アメリカで初めてDVDプレーヤーが試験販売されたのは、その前年1997年の3月のことだった。サービス開始時点で、DVDのタイトルはわずか800。おかげで世の中にあるDVDすべての在庫があると謳うことができた。
最初のプロモーションは、東芝、ソニーといったメーカーとのタイアップだった。DVDプレーヤーを購入すると、無料でDVDをレンタルできるというクーポンをつけたのだ。メーカーは、ソフトがないからプレーヤーを買わないという消費者のジレンマを解くことができる。まさにウィンウィンの契約である。
サービスへのアクセスは急速に伸びた。しかし、客の多くは無料レンタルを利用した後に戻ってきてくれなかった。完全に持ち出しで、赤字が膨らむいっぽうだった。
もうひとつ悪い数字があった。当初の目論見に反して、売上の大部分がDVDの販売によるもので、レンタルの売上はわずか3%。アマゾンやウォルマートといった巨人が販売を始めたら、瞬く間にネットフリックスは踏み潰されてしまう。マークたちは、DVD販売かレンタルかという選択を迫られた。限られたリソースをどちらに投入すべきか。DVD販売は売上のほぼ全てだが、今後は確実に消えていくのが目に見えていた。
そんな頃、アマゾンから声がかかった。買収の提案である。シアトルに飛んだマークたちは、アマゾンのオフィスで買収の提案額を聞き、彼らのケチぶりに度肝を抜かれる。アマゾンがDVDの販売に手を伸ばせば、規模でもコストでも歯が立たない。そしてマークたちに声がかかったという事実が、彼らがDVD販売に舵を切ったことを物語っていた。
買収に心は揺れたが、マークらは思い留まった。そして、売上のたった3%でしかなかったレンタルに賭けることを決意したのだ。
1999年、サブスクリプションモデルを導入し、レンタルは大幅に伸びた。しかし、ユーザーを広げるために、最初の1カ月を無料お試しにしたため、これが大きくコストを押し上げた。少なくとも加入者が100万に達するまでは、赤字が続く状態である。投資家の資金頼みの経営が続く。
2000年、ドットコムバブルが崩壊した。ネットフリックスは倒産こそ免れたものの、計画していた株主公開は延期へ。投資家の資金も、一転、手の届かないものになった。
そこで次にマークらが考えたのが、ブロックバスターへの身売り、ないしは提携の提案である。当時、ブロックバスターは9000店舗を構えるビデオレンタルの王者だった。ネットと実店舗、旧作中心と新作中心という具合に、両社は事業をうまく補完できると踏んだ。しかし、ブロックバスターのネット事業への評価は低く、一蹴されてしまう。
それまでもっぱら顧客獲得に注力してきたネットフリックスであるが、コストの削減に真剣に取り組まなければならないことが誰の目にも明らかになった。そこで、サイトからは余分な機能をそぎ落とし、レンタルプランも絞り込むこととなる。2001年夏には、ついに多くのメンバーに別れを告げざるをえないところまで追い込まれた。いよいよレイオフに踏み切ったのである。
1カ月定額料金を払えば、好きなDVDを借りっぱなしにできる。返却期限を気にしなくてもいいし、店舗に足を運ぶ必要もない。こうしたネットでのサブスクリプションのモデルは、当時は奇妙な仕組みとされた。
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