1906年の夏、ニューヨークに隣接するロングアイランド市にある別荘に来ていた銀行家の一家から6人の腸チフス患者が出た。別荘のオーナーは、衛生官にその原因究明を依頼した。
調査を通して浮かび上がってきたのが、一人の賄い婦である。彼女は、チフスが出現する数週間前に雇われ、病気騒ぎが始まって3週間ほど後に、仕事を辞めて立ち去っていた。
とても料理がうまいうえに、子どもの面倒見もよく、銀行家一家は彼女のことを気に入っていたという。衛生官が彼女の職歴を調べたところ、1897年から雇われていた8つの家族のうち、7つの家族からチフス患者が出ていたことが明らかになる。
集計すると、1900年から1907年にかけて、彼女が関わった家庭から22人のチフス患者が出ており、そのうち1人が死亡していたのだ。
この賄い婦こそが、メアリー・マローンである。
1907年3月、衛生官はメアリーのもとを訪ねた。腸チフス菌が宿っている可能性があるとして、大小便と血液のサンプルを提供するよう求めるためだ。ところが、メアリーは激怒し、衛生官を追い返してしまう。
メアリーにとっては当然だろう。健康そのもので、なんの自覚症状もない。そんな自分が腸チフスに感染しているなど、とうてい受け入れられなかった。
しかし後日、ニューヨーク市の衛生局は、警察官の力を借りてメアリーを強制的に収容した。検査の結果、かなり高い濃度の腸チフス菌が検出された。この検査結果を受けて、メアリーは当局により、ノース・ブラザー島にある病院に強制入院させられてしまう。
ノース・ブラザー島は、ニューヨークを挟むように縦断するイースト・リヴァーに浮かぶ島である。天然痘や結核など、隔離を必要とする患者たちが収容されていた。そこでの生活は、朝起きて、食事を摂り、またベッドに入る時間になるのをただ待つだけのものだったという。
当時、いくつかの新聞がメアリーについて触れていた。彼女のイメージは、腸チフス菌を体にかかえたまま料理を賄う女というものだ。そのため、彼女は「コミュニティにとっての敵」であり、「一般市民の健康への重大な脅威」とされた。一部では、「歩く腸チフス工場」「人間・培養試験管」などという、残酷な表現もあったほどだ。ただし、この時点では、メアリー個人の名はまだ明かされていなかった。
腸チフスは、汚染された水や食物から「経口感染」する。菌が体に入って数日から2週間ほどの潜伏期間のうちに、菌が血液に侵入する。すると徐々に体温が上昇し、40度前後にまでなる。そしてその高熱が4週間も持続するのだ。1カ月程度も発熱していると、腸に内出血が起きたり、穴があき腹膜炎を起こしたりする場合がある。致死率もかなり高く、それゆえ腸チフスは人々に恐れられていた。
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