人は誰しも、生きていくのに必要なスキルを勉強する。その内容は、読み書き、計算、仕事のスキルなどさまざまだ。もちろん「深く」勉強をしなくても、生きていくことはできる。それは周りに合わせて動き、状況にうまく「乗れる」、ノリのいい生き方である。
逆に「深く」勉強することは、流れのなかで立ち止まることであり、いわば「ノリが悪くなる」生き方だ。いままでと比べてノリが悪くなる段階を通り、「新しいノリ」に変身するという、時間がかかる勉強法である。勉強を深めることで、これまでのノリでできた「バカなこと」がいったんできなくなり、人生の勢いがしぼんでしまう時期に入るかもしれない。しかしその先には、「来たるべきバカ」に変身する可能性が開けている。
勉強とは獲得ではなく、喪失することだ。それはみんなでワイワイやれる第一段階、いったん昔の自分がなくなるという試練を通過する第二段階、その先で来たるべきバカに変身する第三段階を経る。来るべきバカとは、たんに周りのノリに合わせるのではなく、その背後に小賢しさを畳み込むこと、自分の根っこにあるバカさを変化させ、別のしかたでバカになり直すこと、いわば新たな意味でのノリを獲得する段階のことなのである。
勉強とは、「自由になる」ための自己破壊だ。この深い勉強を、本書では「ラディカル・ラーニング」と呼ぶ。私たちは会社や家族や地元といった「環境」に属し、可能性を制限されている。環境のなかで行動は決まるので、「完全に自由にして良い」となったら次の行動を決められない。無限の可能性が有限になることで、はじめて行動できるようになる。
環境には、いつの間にか身につけた「こうするもんだ」がなんとなくある。それに合わせた生き方をしているとき、私たちはその環境のコードにノってしまっている。逆にコードにそぐわない行為を「やらかして」しまうのは、「ノリが悪い」ということであり、周りから「浮く」ということである。たいていの場合、こうした環境のノリと自分の癒着は意識されない。
勉強とは、ある環境のノリから抜け出し、別のノリへと引っ越しすることである。英語を学べば英語的なノリへ、社会学を学べば社会学的なノリへの引っ越しが起きる。しかし引っ越す途中での、2つのノリの「あいだ」で、私たちは自分が引き裂かれるような居心地の悪い思いをする。新しい環境では、ものの名前や専門用語、略語をわざわざ使わなければならず、これまでのノリならこんな言い方をしなかったと違和感を持つだろう。だがこの違和感を見つめることで、自分を言語的にバラせるようになり、自己破壊が生じるのだ。
このように言語を意識的に操作することは、どんな勉強にも共通して重要である。ラディカル・ラーニングとは、あえてノリが悪くて場違いな言葉の選び方を、意識的にできるようになることと言える。
勉強すると、「批判的になる」姿勢が身につく。批判的に今とは別の可能性を考えるということは、わざとノリが悪くなることを意味する。自由の余地は、この「ノリが悪い語り」や「キモい」語りに宿っている。勉強によって自由になるとは、要するにキモい人になることである。
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