「俄然、意欲が湧いてきた。そこまで残って外されたらつまらない」──。最終候補者3名に名前が残ったときの感想だ。1990年師走、ペレス・デクエヤル国連事務総長直々に国連難民高等弁務官をお願いされる運びとなった。着任は、翌1991年2月であった。それから2000年12月に退任するまで、冷戦後の10年間を3期にわたって務めあげることになる。
これまでも、国連総会への参加だけでなく、公使としてニューヨークの日本政府代表部で平和維持活動と人権を担当するなど、事業活動にも関わりがあった。1979年に政府のカンボジア難民調査団長を務めたとき難民に接した経験はあったが、難民保護の仕事は初めてだった。
就任前後の時期は、東西ドイツ統一、ユーゴスラビア分裂、ソビエト連邦崩壊と、世界情勢が大きく変化していた。それから数カ月の間に、難民の数は推定1700万人にも上っていた。激増する難民を前にして、既存の国際緊急援助システムの限界が露呈し、難民保護のあり方に対しても新たな問題が浮上していた。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の職員は、その8割が世界140カ国の現場で活動している。現場はたいてい僻地にあり、常に命の危険と隣り合わせだ。救済対象となる難民は、難民条約で「政治的、人種的、信条的迫害や紛争のために祖国を逃れて国境を越え他国に庇護を求める人たち」と規定されている。そうした人たちに国連の権威の下で法的な保護を与え、衛生管理されたキャンプの設営や食糧、医療を提供するのがUNHCRの役割である。
UNHCRの活動は、国連分担金ではなく任意拠出の事業費によって賄われている。一般に、人道活動や開発援助にかかる事業費をすべて国連分担金で賄おうとすると、国連の財政は立ちゆかなくなるためだ。それに、任意拠出は開発途上国からのものもある。UNHCRは難民の増加で事業費が膨れ上がり財政危機に陥ったこともあるため、お金集めも難民高等弁務官の重要な仕事となる。
政治と経済が安定しないと、人間は逃げる。植民地が独立を果たして主権国家になったとしても、経済的自立ができなかったり、社会的不平等があったり、あるいは政治的な圧政があったりすると、難民の増加が始まる。また、情報網と運輸手段の発達も関係している。東ドイツの人々が西ドイツのテレビを見ていたように、よりよい生活の情報は大きなプル・ファクターとなるからだ。東南アジアの外国人労働者が日本に来るのも、そうした事情がある。
難民は、紛争の犠牲者であると同時に、紛争の当事者あるいは敗者に近い人々である場合が少なくない。そして紛争の原因は政治だ。貧困や経済の問題を背景として、社会の不公正や不正義が拡大し、そうして生じた政治対立が紛争を生んでいる。だから、難民問題の解決には、政治対立の決着が不可欠なのだ。たとえばカンボジアでは、パリ和平会議における和平合意が大きな糸口となった。
1990年代は、難民大量流出の時代だった。
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