長い歴史の中で、人類は互いを殺し合うための様々な理由を探してきた。だが、人間の身体的特徴を戦争や大規模な迫害の根拠として挙げ、実行に移すまでになったのは、ヨーロッパ文明が初めてである。レイシズムは西洋人がこの世に生み出したのだ。
受精の瞬間から何もかもが決定されているというような前提が、レイシズムには備わっている。このような空想からは、「純粋な」民族が歴史を通じて国をずっと治めてきたとか、純粋民族に固有な「麗しき」身体的形質があるといった主張が生まれた。レイシストは自分たちの主張を根拠づけるために絶えず歴史を書きかえる。もっとも偉大であるのは我々だとする不条理な主張の多くは、「科学」という客観的知識の積み重ねに依拠しているかのように提示されている。
現代社会を生きるうえで、レイシズムを無視して済ませることはもはや不可能だ。であれば、次のようなことを考えていかねばならない。出発点となる事実や、それに対して発せられる言葉はどのようなものか。その背後にはいかなる性質をもつ論理があるのか。
「人種とは、遺伝する形質に基づく分類法の一種である」というのが、人種のもっとも簡潔な定義である。したがって問題となるのは、遺伝現象そのものと、遺伝によって伝わった形質だ。これら生物学的な遺伝と、社会的に学習されるものとの間の区別が曖昧になると、議論は必ず迷走する。だからまず、人種とは「何ではないか」を明らかにしなければならない。
人種とは、その人物がどの言語を使っているかではない。だが、言語と人種はしばしば混同されている。ナチス・ドイツは「アーリア」という単語で単一民族を表していたが、この言葉は言語学上の概念で、広義にはインド=ヨーロッパ語族を指し、人種的に1つではない。人種は先天的なものである一方、言語は後天的に学習される。アメリカに連れてこられた黒人は英語を学び、クリスチャンになり、高級列車のポーターになった。アメリカ人をつくっているのは文化である。
文化とは、遺伝ではなく学習によって得られた行動の全体を指す。そして、土地の住民が次々に入れ替わったとしてもなお保たれるほどのものこそが、文化と呼ばれ得る。ヨーロッパの旧石器時代から現代まで受け継がれてきたものは、文化の連続性であって人種の連続性ではない。製鉄、火薬、製紙・活版印刷、穀物の耕作といった発明の多くも、ヨーロッパ文明のものではなく、その起源は遠い民族にある。高度な文明を一手に支配した単一人種などいない。人種の概念によって人類の偉大な達成をすべて説明しよう、などと考えてはいけない。
人種の違いとしてまず目を引くのは皮膚の色である。
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