「もし今日が人生最後の日だとしたら、あなたはどう生きたいか?」。こう尋ねられたとき、人によって答えは違うだろう。最後まで仕事に全力を注ぎたい人もいれば、愛する家族と一緒に過ごしたい人もいる。
人は普段「明日がある」と思っているから、夢や希望を抱いて生きていける。もし死を目前にして、「明日がない」と思っているなら、それは究極の絶望となる。
著者が日々の訪問医療で行うのは、診察や検査の他に、苦しみを抱えている患者さんが少しでも穏やかに日々を過ごせるよう手助けすることである。特に、人生の最終段階にいる人々の身体の痛みや心の苦しみが和らぐように力を尽くしている。
「残された時間が少ない」という状況では、人は「人生最後を穏やかな気持ちで過ごすために必要なこと」を真剣に考える。そして自分にとって「本当に大切なこと」に気づくようになる。そのとき、著者は患者さんたちに、「○○するより、△△した方がよい」などということはしない。彼ら自身が望む「ありのまま」を尊重することが、その人にとっての一番の幸福だと考えるためだ。
「人生最後の日をどう生きたいか」を想像したときに思い浮かぶ、自分にとって一番大切なものは何か。それこそが健康なときにも、死を目前にしたときにも、私たちの人生や心の支えとなってくれる。
したいこと、しなければならないことを、ついつい先送りにしてしまうのは、「明日がある」と思えるからこそである。しかし、死を目の前にしたときには、本当にしたいこと、しなければならないことが見えてくることがある。
著者は、ある女性と入籍せずに生活を共にしていた「事実婚」の男性を看取ったことがある。過去に入籍しようとするも実現に至らず、彼は死の直前にそのことをとても悔やんでいた。そこで、著者ら在宅緩和ケアチームはその実現に向けて動いた。彼が亡くなる数日前に婚姻届が受理され、病室で簡単な結婚式を実施。その甲斐もあり、男性は穏やかに最後を迎えた。
したいことを全てやりきるのは、なかなか難しい。だが、やらなければ必ず後悔するということがあれば、今のうちに取り組んでおくとよいだろう。人生の終わりが近づくと、人は「自分のできないことは、手放そう」と思うようになる。そして、自分を縛っていたこだわりから解放され、本当の幸せに気づけるのだ。
自分の容姿や能力などを他人と比べ、優越感を覚えた、もしくは劣等感にさいなまれたという経験はないだろうか。他人との比較によって、自分の価値をはかることを、ここでは「比較の価値」と呼ぶ。
他人との比較は、自分を客観的に見つめ直せるというメリットをもつ。だが、比較によって苦しさばかりが増してしまうときは、一度「今日が人生最後の日だ」と想像してみよう。
死を目前にすると、比較の価値はまったく意味を持たなくなる。どれほど社会的に成功した人でも死を逃れることはできないし、その成功が穏やかな最後のときを約束してくれるわけでもない。病気になって将来の夢を失い、自分の人生の意味について悩む患者さんも多い。
しかし、そんなときが「本当に大切なもの」に気づき、自分が果たしてきた役割を見つめるチャンスだ。平凡であっても「親として家族を守ってきたことこそが自分の役割だった」などと振り返る人も多いそうだ。このようにして自身の人生を肯定できるようになると、人は必ず穏やかな気持ちになれる。
最後のときが近づいていても、自分自身の支えに気づけば、自分の人生を肯定し、穏やかになれる。ここでの支えとは、家族、家族以外の介護者、神の存在など、さまざまである。また、苦しんでいた人が、「自分が大切にしてきたことが、世代を超えて伝わっていくこと」に気づいたとき、穏やかさを取り戻すこともある。
3,400冊以上の要約が楽しめる