最近の若い人たちが、あまり「つるんで遊ぶ」ことをしなくなったように見えるのは、他人とコミュニケーションするのが面倒だからではないだろうか。そうして他人との付き合いを負担に感じるようになったのは、共感圧力が強すぎるせいだと思う。
いまの日本社会では、過剰なほどに共感が求められている気がする。しかし、ふつう他者との間で100%の理解と共感が成立することなんかあり得ない。どんなに親しい間であっても、共感できることもあればできないこともあるし、理解できることもあればできないこともある。
家族の間に秘密があることも当たり前であり、家族に知られたくない思いを心の奥底に抱え込んでいるものだ。もし「家族らしい思いやり」というものがあるとすれば、家族が隠していそうな「心の秘密」に気づいてもそれに不用意に近づかない、という気づかいのことではないだろうか。
どれだけ親しい間柄でも、必ずどちらかが「何でそんなことを言うのかわからないこと」を言い出し、「何でそんなことをするのかわからないこと」をし始める。しかし、それは避けがたいものなのだという心の準備はなかなかできないので、「親しいつもりだった家族」は傷つけ合ってしまう。「家族はお互いに秘密を持たない方がいい」「家族は心の底から理解し共感し合うべきだ」という、間違った前提から話を始めたことがその原因なのだ。
「あるべき家族」について高い理想を掲げ、お互いをつねに「減点法」で採点するのはよくない。家族の合格点をわりと低めに設定しておいて、「ああ、今日も合格点がとれた。善哉善哉」と安堵する日々を送る方が、精神衛生にも身体にもよいのではないだろうか。
電車の中で高校生たちが話しているのを横で聴いていると、超高速で言葉が飛び交っていることに驚かされる。脊髄反射的で、「口ごもる」とか「しばし沈思する」ということがまったくない。おそらくかれらは、その超高速コミュニケーションが「良質のコミュニケーション」だと思っている。
超高速コミュニケーションが可能となるためには、そのサークルにおける自分の「立ち位置」、「こういうふうに話を振られたら、こういうふうに即答するやつ」という「キャラ設定」が確定していなければならない。これはとても疲れることだし、大きなリスクを含んでいる。キャラ設定を受け入れると、たしかに集団内部に自分の「居場所」はできる。一方でこれは、最初に与えられた役割から踏み出さず、そこから変化してはいけない、という無言の命令とセットとなる。
家庭内でも、無数の「キャラ設定」がある。その期待に応えてそれらしいリアクションをすると、家族も機嫌がよくなる。しかし家族の絆はつねに、「変化するな」という威圧的な命令を含意している。人が成長するときには、3日経つと別人になってしまうくらいの勢いで変わる。だから、若い人たちが成熟を願うのであれば、どこかで家族の絆を諦めるしかない。子どもの成熟と家族の絆はトレードオフなのだ。絆が固ければ固いほど、成熟を求めて絆を切った子どもと残された家族とのその後の関係修復は困難になる。だったら、はじめから絆は緩めにしておいた方がいい。
この往復書簡を通読すると、親密なやりとりよりも、「なんとも微妙なすれ違い」の方に興味を持つのではないだろうか。
私たち2人は、うまくコミュニケーションのできない親子だった。
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