宇野康秀(以下、宇野)を知るうえで、父・元忠の存在は欠かせない。元忠は、裸一貫から大阪有線放送社を立ち上げ、一代にして従業員1万人を超える大企業にまで成長させた人物だ。大阪有線放送社の創業は1961年。そこから破竹の勢いで成長し、1980年代半ばには、50万件を越える加入者数を誇っていた。
しかしながら、その背景には電柱の無断使用があった。大阪有線放送社は創業以来、電柱の使用料を払うことなく、営業マン自らが電柱に上り、無断でケーブル線を引いてきた。そんなゲリラ戦を演じながら、元忠は自ら車を運転しては、地方にある弱小の有線放送を買収してシェアを拡大していった。自宅にはほとんど帰らなかった。あるとき、そんな状況を見かねた妻・依月が、元忠へこんな言葉を投げかける。
「社長のあんたが休みの日もなんで、働かにゃあかんの? 社員に任せたらええやん?」
すると元忠は、「ワシより働くもんがおったらそいつが社長や」と言い返した。宇野はこのときのやりとりを鮮明に覚えているという。
元忠はたまに家に帰ってきては、大きな声で母に命令し、気に入らないことがあれば暴言を吐き散らした。宇野はそれがイヤだった。父が帰ってくるやいなや、言葉を交わすこともなく、自室にこもっていたという。しかし自分の夢を持つようになると、父への思いにも変化が訪れる。
小学校時代の宇野は、図書館に行っては、歴史上の偉人伝を読み漁っていた。そして子供ながらに、「いつか自分も自伝を残すような功績を挙げたい」と考えるようになった。いざ起業家を目指しはじめると、一番近くにいるロールモデルを意識することになる。父親としてはけっして尊敬できなかったが、経営者としての元忠はとても魅力的に映った。
宇野は高校卒業後、明治学院大学に入学した。当時はバブル景気のまっただ中だ。大学ではイベントやパーティーがひっきりなしに行われており、そこへ企業が協賛金を出すなど、大学生は注目のマーケットとなっていた。宇野が入ったプロデュース研究会では、テニスやスキーの企画、資生堂の若者向け化粧品のプロモーションを請け負っており、宇野自身も社会人さながらに活動を行なっていた。
そんななかで出会ったのが、戦後最大のベンチャー企業であるリクルートだ。同社は就職情報、住宅情報、女性の就職転職市場などへ次々と参入し、あたかも情報社会の到来を告げるように、目を見張る成長を遂げていた。そんなリクルートが最も力を入れていたもののひとつが採用だ。「地頭のいい人材を採用する」という方針のもと、自ら考えて行動する企業風土を築き上げていく。そんなリクルートのスタイルは、事業家を目指す学生にとって、大変魅力的に映った。
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