著者は決して、非常識な人間ではない。約束は守るし、遅刻もしない。プロジェクトで借りたお金は必ず返すし、イベントなどに来てくれたお客さんには最大限のサービスを提供したいと思う。誰かに対して反論したいときは、本人にきちんと正面からぶつける。知らないことは「知りません」と恥ずかしがらずに答えるし、仕事の仲間への指示は明確に、正しく伝わるよう、言葉に気をつけている。
とはいえ、怒りや文句を押し殺すことはしない。言いたいことは言うし、相手や場の空気にかかわらず、怒るときは怒る。
例えば取材の席や著名人との対談の場で、まったく的はずれな質問や、いまさらと思えるような質問を投げかけられたら、苛立つこともある。あまりにも分別のない質問をする人には、話を遮ってでも注意する。
相手のことを知っておけば、対話のレベルが上がり、よい時間が過ごせるものだ。そのための下調べは、仕事人として常識ではないだろうか。著者自身、仕事で対面する相手のことは、最低限調べておく。当たり前の下調べを怠り、他人に密度の低い時間を強いる人こそ、非常識だろう。
ビジネスパーソンとして長年、非常識だと言われてきたが、その自覚はない。逆に、他の人のスピード感のなさや思考の足りなさ、理不尽な対応を非常識だと感じ、呆れることは多くある。
かつて「もっと常識をわきまえなさい」とよく言われたが、理解できなかった。「常識」を守っていればいいことがあるのか? 答えは「ノー」だ。世間の「常識」に合わせて自分を曲げることなく、自分の常識をひたすら貫いてきた。
その結果、ビジネスはうまくいき、豊かになり、優秀な仲間も可愛い恋人もできた。世間の常識に従っていい結果が得られた試しはない。
著者のスタイルを非常識だと非難する人もいるだろう。しかし非常識とは、常識を突破して思うままの人生を手にした人間が獲得できる、誇りある称号なのだ。
1991年、現役で東大に合格した。東大には面白い人がいるだろうと期待していたが、実際は、就職する会社のブランドを気にしている人ばかりだった。がっかりして麻雀と競馬に明け暮れるうち、アルバイトをきっかけに、ITの世界に触れることになった。
Web空間はスマートだった。全世界の情報がパソコンの画面に集まり、コミュニケーションやショッピングなどといったあらゆるシステムが、オンラインで深くつながっている。そんなインターネットに理想の社会の到来を予感し、インターネット事業の会社を起こした。
それと前後して、大学を中退した。行くのをやめたら、いつの間にか除籍になっていた。これが、最初にとった、非常識と言われる行動だろう。東大を辞めてインターネットのビジネスを起こすなんて非常識だと言われたが、後悔したことは一度もない。
常識を守って生きる自由だけでなく、非常識に生きる自由が、もっと当たり前に認められるべきだ。自分のやりたいことを見つけ出し、大きなチャンスを掴むには、常識だけでは足りない。もちろん、知識や人脈や運があればいいというわけでもない。もっとも大切なのは、非常識への踏み出しだ。
食べていくためには働かなくてはならない。多くの人はそのように思い込んでいる。しかし本当に、仕事をしなければ生きていけないのだろうか?
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