近年、行動経済学に多くの注目が集まっている。私たちの意思決定は利益とコストを合理的に天秤にかけるだけで成り立ってはいないという考えのもと、私たちが置かれた社会的・心理的要因の影響をも考慮することで、経済学の原則に拡がりを持たせたからだ。直感的で、小難しい数字などを使わないため、一般にも広く受け入れられている。
伝統的な経済学では、人間は常に合理的であり数的計算を正確にこなすという前提に立つ。「私」以外の人間が何をしているかは一切気にしない人間像が想定されている。また、仮に何か経済的問題が生じれば、それは個人の誤りによるものではなく、市場や制度に欠陥があると考える。
一方、行動経済学では人を「合理的な生き物」として扱わない。逆に「合理的意思決定の限界」に着目するのだ。
そのよりどころとなるのが「限定合理性」という概念である。我々の意思決定は数多くの制約を受けるという考え方だ。当然、人間の記憶力や数的処理能力には限界がある。最適な選択肢を検討する時間や能力が不足し、特定の選択肢を選ばざるを得ない状況も発生する。
そのほかにも、自分の置かれた状況や場面に左右される「環境合理性」、迅速かつ単純に意思決定するための「現実的合理性」など、行動経済学では意思決定にまつわる概念がいくつか生み出されている。
行動経済学は人間の合理性の多様性を認める。それゆえに、関連性と信頼性のあるデータの確保が課題となる。従来の経済学であれば、政府や国際機関の統計データを使った実証的な分析が一般的だ。一方、行動経済学では実験でデータを集めることが多い。
実験対象や実験方法は、その内容によってデータの信頼性を損ない得る。大学生に金融取引の実験をしても、現実のトレーダーの行動とはほとんど関連がないかもしれない。時には脳波や心拍数などの神経科学データを組み合わせたり、現実世界の出来事や人々の行動からデータを抽出する自然実験を行ったりする。それでも、人間の意思決定プロセスについて明確に判断することは難しい。
モチベーションとインセンティブは、行動経済学において重要なファクターである。経済学では通常、金銭が最も重要なインセンティブとして扱われるが、行動経済学ではほかの社会経済的・心理的要因の影響も考慮している。
モチベーションとインセンティブには大きく分けて外発的と内発的という2つがある。外発的なそれは個人の外側にある報酬のことだ。金銭的な賃金だけでなく、身体的な脅威や社会的承認も外的報酬といえる。
内発的モチベーションは、個人の内側にある目標や姿勢から湧き出てくるものだ。それは義務感や達成感、あるいは難問に挑戦する楽しさかもしれない。金銭的報酬などどうでもいいというわけにはいかないが、それは数多くのモチベーションの1つに過ぎないのだ。
外発的および内発的モチベーションは独立しているのではなく、前者が後者を駆逐することもある。これを「クラウディング・アウト」と呼び、そのメカニズムはさまざまな実験で示されている。
ある実験では学生を2つのグループに分け、それぞれにパズルを解くよう指示した。一方には金銭的報酬が支払われ、もう一方には何も支払われない。そうすると意外なことに、報酬なしのグループの中にも好成績を収めた者たちがいた。金銭的報酬が支払われるとそれが十分かどうかが検討される一方(外発的モチベーション)、お金をもらわないグループは作業の知的挑戦を楽しんでいた(内発的モチベーション)。
献血もクラウディング・アウトの好例である。献血者に対して金銭報酬を導入したところ、逆に献血が減ったという実験もある。良い市民であろうという内発的モチベーションが、お金という外発的モチベーションによって阻害されたと考えられる。
外発的モチベーション、内発的モチベーションはともに、仕事にも大きく影響している。それに対する行動経済学の知見は、「効率賃金理論」という重要な学説と密接に関係している。経済的・社会心理学的な要因が労働者の働きぶりをどのように刺激するかを考察するものだ。効率賃金とは企業の労働コストが最も低くなる賃金水準を指す。仮に賃金を1%上げて生産量が2%増えれば単位当たりの労働コストは低下する。
もちろん、賃金と利益の関係は従来の経済学でも扱われてきた。しかし、労働者のモチベーションには会社への忠誠心や上司への信頼など社会的・心理的なインセンティブも影響する。非金銭的インセンティブを考慮することは企業経営にとっても示唆に富んだものとなるのだ。
私たちの意思決定を左右する「社会的要因」について詳しく見ていこう。
私たちはみな、他者を気にかけることもあればそうでないこともある。そうしたなかでも信頼と互酬の相互作用は、私たちの協調的・協力的活動においてとても重要な要素となる。
自分をまっとうに評価してくれる人に対しては信頼に値するふるまいによって報いる。
一方、不当な扱いを受けるのであれば互酬をしない可能性も高まる。これを「不平等回避」と呼ぶ。他人が自分よりもずっと恵まれている、あるいはずっと不幸である、という状況を私たちは好まないのだ。
不平等回避の検証でよく用いられるのが「最後通牒ゲーム」だ。
提案者と回答者の2人のプレイヤーでもできるこのゲームでは、たとえば提案者は最初に100ポンドの予算をもらい、回答者に好きな金額を取り分として提示する。回答者が提案を拒否すれば提案者・回答者ともに取り分はゼロになる。利己的な個人を想定する経済学に基づけば、「1ポンドでも受け取れたほうがいいと回答者は考えることを見越して、提案者は1ポンドを提案する」と予測する。だが実際には、提案者は1ポンドをはるかに上回る取り分を提示し、回答者は予算の4割を超える提案をされても断るケースが多い。
行動経済学では不平等回避を社会的感情と見ることもある。自らの置かれた社会的状況に応じて、不当な扱いに対して怒り、妬み、羨望といった感情がはたらくのだ。
「ハーディング現象」は、他人を模倣し、群れ(ハード)を形成し、ともに行動しようとする人間の社会的性質を説明する。20人に対していたって簡単な質問をする実験で、実はそのうち19人は間違った解答をするサクラであった。その結果、たいていは本物の被験者も間違った答えを出してしまう。たやすく他者に流されてしまうのだ。
周囲の人間の選択は、社会的情報として人の群れの中に伝わっていく。ただし、群衆の行動に引きずられ個人の有用な情報が看過されることで、結果として集団全体が不利益を被ることも珍しくない。これを「ハーディングの負の外部性」と呼ぶ。
ハーディング現象が生じる理由として、人は「他人にどう思われるか」を重要視する点が挙げられる。他の人々と一緒に間違えたほうが自分の評判は傷つかない。みんなでやれば安全というわけだ。
ハーディング現象は迅速な意思決定の手段であると解釈することもできる。たとえば、何かの購入を検討する際、最近よい買い物をした隣人のオススメを参考にすることで、情報収集にかかる時間を大幅に節約できる。これを行動経済学では「ヒューリスティクス」と呼ぶ。
選択肢が多いことはニーズに合った製品やサービスを選びやすいことを意味するため、私たちの幸福を増進する、と伝統的な経済学は考えてきた。しかし、そうした選択肢の過負荷はむしろ私たちを圧倒してしまう。
ある実験では、ジャムの陳列棚に24個のセール品を並べた場合と5品だけ並べた場合とで、購入意欲がどう変化するかが検証された。すると、セール品が多いと売場に滞在する時間は長くなったものの、5品目だけ並べたほうが購入点数は多かった。つまり、選択肢が多すぎて逆に購入意欲が失せてしまったようなのだ。
選択肢の過負荷にさらされると私たちは、複雑な計算に時間と労力をかける代わりに、シンプルな経験則を活用して速く決断しようとする。その経験則が前述のヒューリスティクスである。
心理学者のカーネマンとトベルスキーは「利用可能性」「代表性」「アンカリングと調整」という3タイプのヒューリスティクスを研究した。利用可能性ヒューリスティクスは、簡単に手に入る情報に頼るというものだ。ホテルを予約する際、過去に使ったことのある予約サイトを再度利用するのもその一種である。他社サイトと比較をすればもしかしたらもっとお得に予約ができるかもしれない。私たちはよほど不快な経験をしないかぎり、なじみのあるものにしがみつこうとする。
代表性ヒューリスティクスは、類推で物事を判断し、もっともらしい関連性をみつけることだ。「リンダ問題」という実験を紹介しよう。実験参加者にはリンダという名の人物に関する情報を読ませた。リンダは、聡明で独身、はっきりとモノを言う30代の女性。社会正義や差別問題に関心が高く、反核デモに参加したことがある。ここで次の2つの選択肢が提示される。どちらの可能性がより高いと感じるだろうか。
1 リンダは銀行員である。
2 リンダは銀行員で、フェミニズム運動にも参加している。
多くの人は「2」を選ぶ。しかし、2は1の部分集合であるため、可能性が高いのは1のほうだ。リンダの事前情報を聞いたことで、そこから想起されるストーリーに合致するほうを選ぶようになる。単純な確率の法則が無視されてしまうのだ。
リスクや不確実性に直面すると判断を誤る可能性が高まる。
従来の経済学では、リスクをとるのが好きな人はハイリスクハイリターンの選択肢を一貫して選ぶと考える。だが行動経済学ではそうではない。
たとえば、次のような実験がある。ゲーム1では、「確実に24ドルがもらえる」選択肢1と「1%の確率で0ドル、33%の確率で25ドル、66%の確率で24ドルもらえる」選択肢2のどちらかを選ばせる。そして、ゲーム2では「34%の確率で24ドル、66%の確率で0ドルもらえる」選択肢1と「33%の確率で25ドル、67%の確率で0ドルもらえる」選択肢2を選んでもらう。ゲーム2は確実な結果を保証する選択肢がない点だけがゲーム1と違っている。
伝統的な経済学の考え方に則れば、リスクを取るのが好きなギャンブラーはどちらのゲームでも選択肢2を選ぶはずだ。だが実際には一貫した選択をする例は少ない。ゲーム1ではギャンブラーも24ドルを確実にもらえる選択肢1を選び、ゲーム2では慎重な人であってもリスクの高い選択肢2を選ぶ。
これは「確実性効果」と呼ばれる。確実な結果を提示されると選択にゆがみが生じ、ハイリスクハイリターンの選択肢を避ける傾向があるのだ。
伝統的な経済学が示す期待効用理論では、確実性効果のような意思決定に関する理論を説明することができない。行動経済学者はそのために、新しい理論を構築しているのだ。
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