「共和政」で知られるローマの政治制度だが、建国当初は「王政」だった。ローマという名の由来ともされる初代国王の名はロムルス。神話によるとロムルスは、トロイア王家の血を受け継ぐ王女と軍神マルスの子とされている。その後、7代にわたり王政が続くが、次第に傲慢になってゆく王に不満を抱いた貴族が反旗を翻し、紀元前509年、王政から共和政へと移行することになる。
ローマが共和政を選択した背景には、自分たちは自由民である、という強い意識があると考えられる。だからこそ、一人の独裁者に自由を侵されることを警戒し、共和政が約500年ものあいだ維持されたのだ。
ローマの共和政は、立法、行政、司法という三権分立が確立されている現代の「共和制」とは異なる。ローマ市民(平民や貴族)で構成される議決機関「民会」が選出する「政務官」が行政・軍事の執行を担うものの、有力貴族で構成される「元老院」が大きな力を持っていた。
自由を尊ぶローマ人の意識を象徴しているのが、政務官の最高職「執政官」が原則2人とされたことだ。非常時においては、指揮系統を一本化するために「独裁官」が期間限定で任命されることもあったが、特定の人物に権力が集中することを避ける意向が反映されているといえる。
ローマとほかの国では、国の拡大方法も異なっていた。当時の地中海地域では、国土の拡大は「植民」だったため、植民地は完全に独立した別の国となる。しかし、ローマの拡大方法は、国土と地続きの土地を自分たちの領土にしていくというやり方だった。自分たちはローマ人であるということが根底にあり、どこにいても祖国を強く意識していたことが、ローマが強かった最大の理由だろう。したがってローマの共和政とは、「共和政軍国主義」といえる。
ローマが大帝国を築き上げることができたのは、戦いに負け、失敗することがあっても最終的には勝利を勝ち取ってきたからだ。その強さの理由はいくつか挙げられる。
まず、軍紀(規律と風紀)を乱す者には厳正な対処をおこなったことだ。これには独裁を避ける意図もあったのだろう。また、戦場に合わせて組織的かつ臨機応変な戦法を採用していたことも大きい。こうした軍を構成する兵士の装備は自前が基本だが、戦法の都合で中隊が中心となることで軽装となり、ローマの下層市民たちも国防に参加できるようになった。戦争に参加する市民は国防の担い手であるという自負を持ち、一人ひとりが強い熱意と誇りを持って臨んでいたのだ。
敗戦将軍であっても受け入れたことも、ローマ軍の強さとなった。その代表例が、第2次ポエニ戦争におけるカンナエの戦いで、わずか1日にして7万もの死者を出して大敗北を喫したウァッロ将軍である。敗戦将軍は屈辱によりすでに十分な社会的制裁を受けている。最後まで戦い抜いたものの結果的に屈辱を経験した人間は、その失敗から学ぶため、次の機会にはそれまで以上の力を発揮すると考えたのだ。再起のチャンスによって最後には勝利をつかむのである。
そうして、ローマに敵対する国々を潰し、将来の禍根を断つことで、ローマは「帝国」へと成長していった。
ローマの貴族は「パテール(父親)」を語源とする「パトリキ」から始まったとされ、家柄が重視されていたが、次第に、平民でありながら国家の要職に就く人が増えていく。そうして、選挙で公職に選ばれた平民の中でも、富を蓄える者が現れはじめた。
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