建国の王ロムルスの名をとった「ローマ」。この初代の王の治世は37年に及び、このとき元老院や市民集会といった、その後の共和政にも引き継がれるローマの基礎が築かれた。
しかし時代が下るにつれ王に対する民衆の反感が強まり、王家一族は追放される。王に代わるものとして任期1年限りの政務官と、民会、元老院の三者による共和政が始まった。その背景には「自分たちは自由である」というローマ人の集団的自由意識がある。
古代地中海世界においてローマが唯一大国に成長することができたのは、この「反独裁のためのシステム」として機能した共和政のバランスの良さにあったといえよう。
ルネサンス期の思想家マキアヴェリは「ローマ人は、屈辱が大きければ大きいほど復讐心に燃える民族」だと述べている。勝利を手にするまでねばり強く戦い続けるのがローマだった。
地中海貿易で栄えていたカルタゴとのポエニ戦争がまさにそうだった。この戦争は、一度目はローマが勝利したものの、約20年後カルタゴには猛将ハンニバルが登場し、ローマはカンナエの戦いで歴史的な敗北を喫する。
しかしローマは、勇敢に戦った敗戦将軍を受け入れ、失敗から学ぶ大切さを知っていた。そして、ハンニバルの戦法を研究していた当時25、6歳のスキピオに、全ローマ軍の指揮権を与える。不思議な魅力をもつスキピオはカルタゴを取り囲む各地の人心を掌握して味方につけたこともあり、カルタゴに圧勝することができた。
政治と軍事が一体となり、「先手防衛」で他国への侵出を自国の生存権として行った点で、この時の国家は「共和政ファシズム」と呼ぶことができる。
なかでもローマ人は「祖国」すなわち「公」に対する強い帰属意識をもっていた。かれらは幼いときから、勇気や名誉はどうあるべきかを祖父や父に叩きこまれてきたからだ。ローマ人はそうして、人の為す気高い行為に価値を見出していたのである。
ローマは、地中海全域の覇者になる過程の戦乱でその国土が荒廃した。困窮した農民が手放した土地を貴族が安く買い占め、農民は大都市に流入して、政治的に無視できない無産市民となった。
その状況を改革しようとしたグラックス兄弟の死後、平民派と閥族派(元老院派)の対立が激化する。さらには奴隷たちが、故郷への帰還を求めて、指導者スパルタクスのもとに反乱を起こすことになる。
この反乱の鎮圧で名をあげたのが、貴族のクラッススと若き武将ポンペイウスだ。そして、大神祇官の職に就きながら軍功も手にしたカエサルが二人を引き込み、三者で政治体制を作ることになる(第一次三頭政治)。
しかし妻ユリアとクラッススが戦死すると、元老院に担ぎ出されたポンペイウスがカエサルと対立する。カエサルは「賽は投げられた」と発してローマに反旗を翻す決意をし、武装したままルビコン川を渡った。戦術に勝るカエサルに敗れたポンペイウスは、内紛に巻き込まれたくないエジプトの手によって殺された。
カエサルのローマでの活躍はわずか2年だった。それでも彼が急ピッチで改革を実行できたのは、イタリア半島の新興貴族を元老院へ送り込み、元老院に支持者を増やしたからだ。しかし、高いカリスマ性と寛容さを備えていたカエサルも、「独裁者になる危険を持つ人物」として、元老院派に暗殺されてしまった。
3,400冊以上の要約が楽しめる