ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』(以下、『論考』)の重要な主張は、言語と世界とが一対一に対応する(one-to-one correspondence)ということだ。名はモノと対応し、命題は出来事と対応する。例えば、「このバラは赤い」は要素命題である。バラはモノの名前であり、「このバラは赤い」はこの世界の中で成立する出来事を表している。目の前にあるバラが赤い色をしている場合、この命題は真である。「バラ」という名前に対応するモノが存在し、「このバラは赤い」に対応する出来事がある。だから言葉は意味を持つ、というのが『論考』の考え方だ。
こうした対応が可能となるのは、命題の内部、つまり言語の側の構造と、出来事の内部、すなわち世界の側の構造が共通していると考えられるからだ。この共通する構造を論理形式(logical form)と呼ぶ。これはヴィトゲンシュタインの論理の独特な考え方だ。論理はわれわれの頭の中にあると考えるのがふつうだが、ヴィトゲンシュタインは、論理は世界にも言語にも共通して備わっていると考えたのである。
『論考』は、言語と世界の双方に、「それ以上小さく分解できない要素」があるとしている。「このバラは赤い」という要素命題には「バラ」という要素がある。現実のバラを物理的に分解することは可能だが、人間は分解しないままのまとまりを「バラ」と認識しているのだから、バラは「それ以上小さく分解できない要素」とみなしてよい。言語も世界も、分解していくと要素に行きつくという意味で、「分析可能」である。
「一対一対応」と「要素」は、いずれも集合論の用語だ。集合論に、無限集合という概念がある。無限集合の大きさを比べるとき、両方の集合から要素を一つずつペアにして、一対一対応させることができれば、「濃度」(無限集合は数えられないので個数とはいわない)が同じであると考える。
出来事も命題も無数にあると考えれば、無限集合のようなものだ。無限集合である世界(可能な出来事の全体)と言語(可能な命題の全体、すなわち考えうることの全体)に、一対一対応をつけられるということは、言語は思考そのものということになる。
ヴィトゲンシュタイン自身は「無限」という言葉は使っていないが、こう考えると彼が自分の哲学を「唯我論(solipsism)」と呼んだ理由が思い当たる。言語は自分の思考に他ならない。世界はすっぽりそのまま、頭の中に入ってしまうのである。
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