我々は日頃、怒ることを肯定する言葉を耳にする。怒っている人を目にする機会も、決して少なくはないはずだ。
あなたが日常的に誰かの怒りに触れているのは、怒りについて何も知らない人ばかりだからだ。本来、「怒り」という言葉は気軽に口にできるものではない。「私は怒りました」と言うことは、「私はバカです」と触れ回っているのと大差ないからだ。
著者はよく「怒りたくないのに怒ってしまう。どうしたらよいでしょうか」といった相談を受ける。その答えはシンプルで、「怒らないこと」ただそれだけだ。それ以外に答えはない。
そう聞くと多くの人は「それができないから聞いているのだ」とムッとする。そうした人は心の中で「私は怒りたい放題、思う存分、勝手に怒ります。でも、怒ってはいけないから、何かいい方法を教えてください」と思っているのだろう。そしてその矛盾した気持ちに気づいていない。
怒らないようになるには、まず「私は怒りたいのだ。ロクなものではないのだ」と認めること。問題を解決するために、問題の理解から始めよう。
「怒り」とは、愛情と同じく心にサッと現れるひとつの感情である。人間は、家族や好きな人を見ると心の中にすぐ愛情が生まれる。怒りも愛情と同じように心の中に一瞬で芽生える感情であり、簡単にいうと、人間は「愛情」と「怒り」、これら2種類の感情で生きているといえる。
お釈迦さまの言葉を忠実に伝える古代インド語「パーリ語」には、怒りを意味する単語が多く存在する。その中でも一般的なものはdosa(ドーサ)だ。dosaは「穢れる」「濁る」という意味を持つ。
人間は、心にdosaが生まれると、その逆の感情、piti(ピーティ)という喜びの感情を確実に失う。心に怒りが生まれると同時に、喜びが消えてしまうのだ。
だから、じつは怒りはわかりやすいものである。自分が今怒っているかどうかわからない場合は、「今、私は楽しい?」「今、喜びを感じている?」と自問自答してみるといい。楽しくないと感じるなら、心に怒りの感情がひそんでいるということだ。
感情には「どんどん強くなる」という性質がある。そして強くなった感情は違った働きをする。
わかりやすい例を出そう。我々のからだには電気が流れていて、それは小さな豆電球を明るくすることもできないくらい少量だ。しかしその電気も、たくさん集まれば大きなエネルギーとなる。
怒りもこれと同様で、ネガティブな気持ちが非常に小さいものでも、それが溜まっていくと、別の働きをする。自分が爆発してしまい、他人まで傷つけてしまうかもしれない。拳を握ったり、筋肉が震えたりするほどの「強い怒り」を、パーリ語ではvera(ヴェーラ)という。
dosaがあまりにも強烈になると、veraとなり、じっとしていられなくなる。さらに強くなると、行動を抑えられなくなり、いろいろなものを破壊していく。まっ先に破壊するのは自分だ。自分を破壊したあとに、他人も破壊していく。破壊は怒りから生まれるのだ。
創造の源泉は愛情で、創造したものを破壊するのが怒りである。世の中には、愛情と怒りというふたつのエネルギーの働きがあるといえる。
怒らないほうがよいとわかっているのに、我々はなぜ怒るのだろう。それは、我々が常に「私は正しく、相手は間違っている」と信じているからだ。
しかしその思考は間違っていて、一刻も早く捨てた方がよい。人間が完全であるはずなどない。物事を正しく判断できる知識人は、自分で意見を述べながらも「今はこう言っているが、それでも隙はある」と理解しているのだ。
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