1991年のソ連崩壊に伴い、ロシア語が母語のクリミア半島は、プーチンいわく「一袋のジャガイモのように」ウクライナに引き渡された。国家が分断されたと捉えるプーチンにとって、2014年のクリミア併合は「失われた領土」の再併合という宿願だった。
欧州の安全保障上、併合は大きな打撃となった。ロシアは歴史修正主義的な大国に生まれ変わったとの見方が大勢だった。
なぜプーチンはあんなことをしたのか。彼の望みは何か。 いったい何者なのか。ずる賢く、強欲で、権力に飢えた、独裁的な指導者というのは一面に過ぎない。
ウクライナへの行動は、2000年代のロシアにおけるプーチンの試みの延長線上にある自然な成り行きだった。また、彼の民族主義的な発言や併合の決断を、新たな「帝国主義」思想と見る向きもあった。つまり、ソ連や旧ロシア帝国を復活させようとしているとの見方だ。
プーチンは1952年、旧ソ連・レニングラードで生まれ、兄弟のなかで唯一生き残った子どもだった。高校卒業後、レニングラード大学で法律を専攻、卒業後にソ連の情報機関KGBに入った。85年に東ドイツ・ドレスデンに派遣され、ソ連崩壊間際の90年、ソ連へ呼び戻された。
KGB時代、プーチンはケース・オフィサー(工作員)となった後、レニングラード大学に戻って学長補佐官を務めた。法学部時代の教授がサンクトペテルブルク市長になった際、貢献したプーチンは副市長となった。
大統領の資産管理の職務のため96年にモスクワ・クレムリンへと異動、数々の要職を歴任した。98年にKGBの後身、ロシア連邦保安庁(FSB)長官に就任した。翌99年にボリス・エリツィン大統領に第一副首相、続いて首相に任命された。12月31日にエリツィンが辞職すると、プーチンが大統領代行に就き、2000年に大統領となった。
これら基礎事実でさえ、情報源があいまいだ。著名人にしては公式情報が驚くほど少ない。かつて存在した情報は隠蔽され、歪められ、消えた。
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