アジアで生まれたペスト(黒死病)は、1347年から1350年に大流行した、極めて伝染力の高い細菌性の病気であった。衛生状態の悪い中世ヨーロッパで猛烈に広がり、患者は感染してからわずか数日で死に至った。この期間だけでヨーロッパ人口の3分の1が命を落とし、1347年以前のレベルの人口に戻るには400年を要することとなった。
中世イタリアの作家であるジョヴァンニ・ボカッチョは、災厄に見舞われたフィレンツェで、人の法も神の法も権威を失い、あらゆる職務が放棄され、秩序が崩壊した様子を描いている。多くのキリスト教徒が「ペストはユダヤ人のせいだ」と激怒し、各地でユダヤ人の虐殺が起こった。また、神がこのような病を放置するはずがないことから、多くの人がカトリック教会の教えや既存の社会秩序に疑問を抱くようになった。ペストをきっかけにして中世の封建秩序は崩壊し、ルネサンスへの道が開かれていった。
17世紀初頭、大きく分けて二種類のイギリス人グループが、北アメリカに入植した。第一のグループは、新大陸に富を求めて現ヴァージニア州ジェイムズタウンに入植した事業家たちだ。彼らは利益を上げることに熱心で、ヴァージニア植民地は商業的に大成功を収めた。
現マサチューセッツに入植したもう一つのグループは、イギリスでは認められていなかった信心の自由を求め、この地に全世界の見本となるような共同体を作ろうとする聖職者たちだった。聖書に基づく厳しい法律を施行し、社会道徳を強制することに熱心だった。
13植民地のうち、残る11の植民地でも、こうしたふたつの相反する特徴が見られた。多くの歴史学者は、この二種類のグループの存在が、今なおアメリカ人のアイデンティティに残る緊張状態の発端であると考えている。
異なる入植者グループの間に親近感はなかったが、本国イギリスの支配に憤慨していることでは一致し、それを通じて13の植民地は連帯していった。
ロシア皇帝のピョートル大帝は、1682年から1725年の43年に渡りロシアを統治した。フランスのルイ14世に倣って絶対君主として君臨し、首都サンクトペテルブルクに豪華な宮殿を新たに建設した。
それまでロシアは完全にヨーロッパ的でも完全にアジア的でもなかったが、ピョートルはロシアを完全にヨーロッパの一員にした。ヨーロッパ諸国との関係を強め、服装にもヨーロッパの習慣を取り入れ、ロシアの軍と行政組織もヨーロッパの基準に合わせて再編した。
ピョートルの死後200年間にわたり、ロシア帝国はヨーロッパの大国であり続けた。しかし、専制政治と農奴制により、ロシアでは強力な中産階級が育たなかった。ピョートルの子孫たちのロシアの統治は、1917年のロシア革命まで続いた。
生物がなぜ進化するのかという理論をはじめて提唱したチャールズ・ダーウィン(1809〜1882)は、イングランドの裕福な紳士階級の家に生まれた。
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