いまの世界には、まったく無意味で有害ですらある仕事、しかもそれを行っている当人すらそう感じている「ブルシット・ジョブ」(BSJ)が増殖している。
2013年にデヴィッド・グレーバーが公開したこの問題に関する小論は予想外の反響を呼び、彼のもとには250を超える体験談が集まった。最終的に11万字以上のデータベースとなったそれらの証言をグレーバーは入念に整理し、2018年に『ブルシット・ジョブ』という本を出した。
「BSJ」の定義は、「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でさえある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、被雇用者は、そうではないととりつくろわねばならないと感じている」というものだ。
BSJには5つの種類がある。取り巻き・脅し屋・尻ぬぐい・書類穴埋め人・タスクマスターだ。
取り巻きは、だれかを偉そうに見せるために存在する仕事だ。ドアマンや受付嬢、パーソナルアシスタントが例に上がる。取り巻きが実質のある仕事をし、上司がブルシット化することもある。
脅し屋は、他人を操ろうとしたり脅しをかける。企業弁護士、広報専門家などだ。「商品を売るためには、なによりもまず、人をあざむき、その商品を必要としていると錯覚させなければならない」。
次に、尻拭い。組織の中の欠陥に対処するためだけの仕事で、一人の人間の欠陥を部下や部署全体が尻ぬぐいするといったケースだ。
そして「やっているふり」をするのが書類穴埋め人だ。「ある組織が実際にはやっていないことをやっていると主張できるようにすることが、主要ないし唯一の存在理由であるような」この役割は、現代ではパワポや図表などを報告書にまとめるだけの従業員として囲われている。
5つ目のタスクマスターには二つの類型がある。一つは「不要な仕事をつくりだす上司」で、もう一つは「他者のなすべき仕事をでっちあげる」ことである。
グレーバーのラフな計算によると、イギリスにおける仕事の37%がBSJで、残りの63%がそのサポートに回っており、実質的な労働時間は週15時間程度であるという。
「ブルシット」には、「うそ、ほら、でたらめ」といったあざむきのニュアンスが強くある。
哲学者のフランクファートは「ウソ」と「ブルシット」のちがいについて議論を行なった。ウソをつくという行為は、真実や事実をごまかしていることを自覚した上で行われるが、「ブルシッティング」では、真実や事実への配慮はなく、「その場をうまく丸め込」んだり、「論破」したり、知的に見せることが重要だ。フランクファートは「だれもがじぶんのよく知らないことまで意見をもたねばならないという強迫」が、ブルシット蔓延のひとつの理由であると理由づけた。
経済学者のケインズは1928年に20世紀末までに欧米ではテクノロジーの進歩により週一五時間労働が達成されると予測していた。
しかしその予言は大外れしている。「わたしたちはすでに一日3時間労働や週15時間労働ですんでいるはず」「なのに、そうなっていないのはなぜか」という問いに対するグレーバーの答えとして「ブルシット・ジョブ」がある。
BSJを考える際の重要なポイントは、一見稼ぎの良い「おいしい」とされる仕事であっても、「完全に目的がない[無意味な]状態で生きることが」「深刻でつらい」という点だ。
グレーバーの分析によると、「人間が自己を獲得するその根源には、「原因」となるよろこび」が存在する」。そして、「原因となれないこと」、つまり「世界に影響を与えることができないことは、自己の危機、自己の存続の危機なの」だ。
そもそも、なぜ実際にはやることがないにも関わらず、人は仕事をでっちあげるのか?
目的を達成することが仕事の名目なら、終わった時点で帰ってもいいはずだ。しかし実際には仕事を早く終わらせても、ほめられるよりも怠惰を指摘されるため、効率よく仕事をこなすより仕事をしているふりをすることのほうが重要になってしまう。
決められた時間に働いていなければならないという考え方は、最近生まれたものだ。普遍的な仕事のあり方とは、「必要なときに集中的に仕事をして、それ以外は、ぶらぶらしている」といった、例えば農業のようなものだった。
この仕事のあり方の変化について、グレーバーは歴史家トムスンの論を参照しながら、ヨーロッパにおける時計の発明と並行して生じた時間の使い方に対する考え方の変化を分析した。資本主義的なモラルが広まる前の仕事は「タスク指向」で、人間は放っておけばこのような労働のリズムを選ぶが、現在は「時間指向」の形態を押しつけられることで、仕事のブルシット化の圧力が生じている。
ネオリベラリズム。「新自由主義」または「ネオリベ」と略されるこの言葉のおおまかな意味は、役所仕事は非効率的で赤字を生むが、市場原理で動く「民間」であればムダが削減されてうまくいく、といったものだ。
BSJ論はこのネオリベラリズムと官僚制の文脈にある。
BSJ論を理解するために押さえておくべき構図は、テクノロジーの進化によってケインズの予言は現代では実現不可能ではないにも関わらず、実際には達成を阻む要因があるということだ。
ネオリベラリズムは通常「経済的プロジェクト」とみなされるが、「民間の論理」が持ち込まれたことで、目標が達成されるどころかかえって経済成長率は低下し、科学的にも技術的にも発展が滞った。
著者は「ネオリベラリズム」の問題点を考察するにあたり、「官僚制」という視点を提案する。『ブルシット・ジョブ』第七章では大学の「シラバス」の作成手順が示されているが、これによれば「非効率」な伝統的大学でシラバス作成に必要なやりとりは教員から教員への通知だけだが、一方ネオリベラル改革を実施する先端的な大学の場合は管理チェックや各担当者への報告など12にも及ぶ過程が必要になる。そしてこの後者において「不条理なまでの意味のわからない」BSJと、そのように増えたBSJを行う新たなポストまでもが生まれる。わたしたちはこのようなものを「効率化」と呼んでいる。
グレーバーによれば、このような不条理な官僚主義化はネオリベラリズムによって拡大された資本主義が促進する「数値化しえないものを数値化しようとする欲望」の帰結である。
ネオリベラリズムと古典リベラリズムの重要な差異は、市場の概念であるという。古典リベラリズムにおいて人は交換する存在だったが、ネオリベラリズムでは競争する存在になった。
組織も個人も競争にさらされることが健全化につながるとみなされるが、しかしそのために日々評価され、監視される。この競争構造の導入のためにはすべてを数量化し、比較対照しなければならない。これがネオリベラリズムの「会計文化」そして「格付け文化」に結びつく。
しかしケアや愛情、連帯といったものが数量化されると、例えば失業者が保障を得るのにも、徹底的な屈辱を与えられ、保障の取得を断念させるかのような官僚主義的手続きが築かれる羽目になる。結果的にネオリベラリズムが官僚制を招くことになるのだ。
BSJはなぜ増殖するのか。グレーバーは「経営封建制」の要素との関連を指摘する。
「封建制」の分配構造は、お上が民衆の生産物を「掠奪」し、自分の取り巻きたちにばらまく、というものだ。
BSJの事例として挙げられている金融、保険、不動産などの比重が高まった現代社会では、かつての伝統的な製造業やメディアも本業ではなく所有する土地や建物の家賃収入で持ちこたえている状況だ。
「レント」という言葉はもともと「地代」を意味する。土地の使用料、つまりレンタル料だが、モノを売って利益をえるのではなく、不動産や株式からの利益に比重がおかれる現代の資本主義は「レント資本主義」だ。
また、現代においては「所有」の概念も拡張され、土地だけでなくより抽象的な知的所有権などもレントの領域に入っている。
徴収された膨大な富は取り巻きにばらまかれ、「一つの過程の中に謎めいた中間的ポスト」を多数作り出すBSJの温床となる。
BSJをめぐる議論でもう一つ重要な論点は「シット・ジョブ」だ。
「シット・ジョブ」はいわゆる「3K労働」にあたる。劣悪な労働環境で社会的地位も高くない。
『ブルシット・ジョブ』での一つの証言にこのようなものがある。
「仕事をして得られるお金の総額とその仕事がどれだけ役に立つのかということは、ほとんどパーフェクトに反比例している」。
この社会的価値と市場価値の乖離はなぜ生じるのだろうか。資本主義の労働観は中世後期の北部ヨーロッパにおける、労働は罰であり苦痛、といったキリスト教的伝統などを引き継いで形成されているが、著者は「シット・ジョブ」とBSJの力学の背景にある発想を次のようにまとめている。
仕事はそれだけで価値がある。無意味で苦痛であればあるほど価値がある。人間を一人前の人間にするものであり、それはモラルなのだ。
なんらかの無から創造にかかわるものこそが労働であり、ケアにかかわる仕事は本来、それ自体が報いであり(やりがいという報いがえられる)、それを支えるものであって本来無償のものである。
「その労働が他者の助けとなり他者に便益を提供するものであればあるほど、そしてつくりだされる社会的価値が高ければ高いほど、おそらくそれに与えられる報酬はより少なくなる」。
この倒錯は見過ごされ、さらにわたしたちにそうであるべきだと観念させるのだ。
では、最後にBSJの増殖を乗り越える道筋について考えてみたい。
グレーバーは、具体的提案で未来を予言することに細心の注意を払いつつも、普遍的ベーシック・インカムを念頭に置いた労働から解放された人間のあり方を想像することを呼びかける。
だれもやりたくない仕事は賃金を上げなければならず、経営者は人を雇わなくて済むようになるべく自動化しようとするだろう。これまで市場化されていた多くの生産やサービスを、人々が自由な時間でおこなうようになり、徐々に賃労働が消えていく。
最後に著者がグレーバーのヴィジョンについて「いちばん魅力的」と述べるのは次のようなところだ。
人間が労働から解放されると、社会には詩人やストリート・ミュージシャン、わけのわからない発明家で溢れてしまうかもしれない。しかし、自分たちの仕事を無駄だと思いながら一日中書類を埋めるよりは、そうしたばかげたことをする方が、はるかに幸せなことではないだろうか。
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