鎌倉幕府の本質は、「源頼朝とその仲間たち」である。中国では律令という法の中で組織が定められていった。日本の朝廷もこれを参考にして太政官の組織をつくったが、それは必ずしも社会の現実に対応したものにはできなかった。それほど組織の運営は難しかったのだ。これが幕府となると、「組織をつくって運営する」という発想にさえ至らなかった。そこで重視されたのは、組織より人間関係だったのだ。
日本列島の先進地域は都のある西だった。一方関東は田舎の僻地であり、政治の手当は薄く、都ではうまくいかなかった人が「下って」くる場所だった。そこに未熟な「人の集まり」が生まれ、「武士の政権」と呼ばれるが、それは政権と呼ばれるほど洗練された組織ではない。そこで頼朝は、自分が生み出した組織を朝廷に認めてもらうことに力を尽くす。
頼朝は、関東自立を主張する上総広常を殺害し、朝廷の伝統的な秩序を守る方向性を選んだ。源氏将軍が三代で滅びたのは、その方針に対する武士たちの反発が原因かもしれない。それでも鎌倉幕府誕生のこの初期段階は、武士が暴力を武力に変え、組織の秩序を成立させる過程であったのだ。
鎌倉幕府の運営を合議する13人の武士は、こうした中で特別に選ばれた。この13人を分類する評価軸として、「関東における秩序」「関東の地理」「政治意識」「頼朝をめぐる女性」の4つを著者は設定する。
まずは「関東における秩序」を検討しよう。
日本では、カースト制度のような細かい身分制度は無かったが、それでも「身分を感じさせる秩序感覚」はあった。平家を例にとろう。桓武天皇から分かれた一族のうち、まるで貴族のように京都で居ついた「堂上平家」がまずある。都で力を持つことができなかった一族は、関東に流れて「軍事貴族としての平家」になった。その中には、国司に任命されるなどで成功し、京都に近い伊勢に移り住んだ伊勢平家もいる。平清盛はその系譜だ。伊勢平家に置いて行かれた末端の平家が「在地平家」である。畠山や千葉、上総のように土地の名を名乗って、自分の土地で生きていた。
鎌倉幕府に集まったのは、朝廷との繋がりの切れた在地平家の武士だ。軍事貴族に当たる頼朝を担ぎ、主従関係を結ぶ。そこには厳然とした身分秩序があり、軍事貴族は幕府の将軍になれる。鎌倉幕府において北条氏がどれだけ権力を握っても将軍にならなかったのは、軍事貴族ではない身分をわきまえ、秩序を超えた出世を望まなかったからだ。
次に「関東の地理」を見てみよう。関東にも地域格差があった。駿河、伊豆、相模、武蔵の「南関東四カ国」は幕府を支えた「お膝元」である。北条氏は利根川で遮られた房総半島には進出しなかったが、この地域の武士は幕府成立の大きな力となったので準地元と言える。一方、上野、常陸といった北関東は独立勢力として存在していたと考えられる。
「政治意識」はどうか。頼朝は旗揚げ当初から事務能力のある人材を重視し、文官を集めていた。エビデンスを残す文書行政をやることになるとわかっていたのだ。北条時政も文官の大切さを理解していた。したがって「13人の合議制」では文官の動向がきわめて重要になってくる。
最後の尺度、「頼朝をめぐる女性」も考えてみよう。それは妻や愛人だけではなく、「乳母」たちも関係してくる。一人目は山内尼だ。源氏と最も関係の深い山内首藤家は代々乳母を出している。二人目は本当の母のように慕ったとされる比企尼。三人目は13人の合議制にも選ばれた八田知家の妹、寒河尼だ。これに加えて、鎌倉に集めた文官・三善康信の伯母が四人目の乳母だった可能性がある。
平清盛と比較すると、源頼朝の父・義朝は大していいところがないように感じられる。清盛にも欠点はあるが、人間が大きく、実際に成功している。それに対し義朝は、平治の乱で器の小さいところを晒すなど「失敗した人間」という印象が強い。それでは、『吾妻鏡』の中の頼朝はなぜ、義朝が亡くなった後も彼を慕い続けたのか。これを理解するために、頼朝以前の源氏をあらためて見てみよう。
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